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第11話

飛鳥探偵事務所

 夜、ようやく事務所に戻ってきた。飛鳥所長の姿はなかったが、念願のシャワーを浴びることができた。久々に浴びる温水の感触が、体の芯にまで染み込んでくる。


(……俺は何をやっているんだ)


 浴室の湯気が薄れていくのと同時に、心の中に冷たい自問が残る。

 あの異世界で誘拐された子供たちは、今もまだあの場所に囚われたままだ。

 なのに俺は、こっちの世界で殺人事件の捜査に関わっている。


(やっぱ、あのとき……帰らない方がよかったんじゃないか)


 ——ピンポーン。


 インターホンの音が、その迷いを打ち消した。


 着替えて玄関を開けると、立っていたのはあの男だった。


「やあ、悠君」

「名取さん……?」


「食事を持ってきたんだ。もし良ければ、一緒にどうかな」

「ああ、じゃあ……どうぞ」


 名取を汚れたソファに招き入れ、二人で向かい合って座る。


「サンドイッチを作ってきたよ」

 名取は弁当箱を開き、綺麗に仕分けられたサンドイッチを二つ差し出した。

 レタスとトマト、マヨネーズで和えられた卵。彩りと香りの調和に、思わず食欲をそそられる。


 ひと口食べると、想像以上の味が口いっぱいに広がった。野菜嫌いの俺でも、これは美味いと思えた。


「……うまいな」

「気に入ってくれてよかった」

 名取は微笑みながら、自分も一つ手に取る。


「名取さんって、将棋の棋士でしたよね?」

「ああ。テレビの将棋番組にも何度か出させてもらってる。……悠君もどうだい? 一局、付き合ってみるとか」


「いやいや、俺将棋なんて全然わからないし。名取さんとやっても、勝てる気がしませんよ」


「それはやってみなきゃわからないよ。人間には誰しも、生まれつき一つは光るものを持っている。探偵かもしれないし、将棋かもしれない。大事なのは、自分が何に向いているかを知ることだ。チャレンジしてみる価値は、きっとある」


「……かもしれないですね」


 俺たちは静かに食事を終え、名取は「またね」とだけ言い残して、事務所をあとにした。


21:00 東京郊外・とある民家

 名取は夜道を軽自動車で走らせ、郊外の静かな住宅地に車を停めた。


「……ここにしようか」


 鼻歌を口ずさみながら、トランクを開ける。

 彼が取り出したのは、小型のクロスボウと、銀色に光るポケットナイフだった。


 ラップトップを開き、特定のコードを打ち込むと、周囲の街頭監視カメラのフィードが次々と停止する。

 手際よくピッキングツールを取り出し、玄関の鍵を音もなく開けた。


「ふーんふんふーん♪」


 無邪気な鼻歌と共に、彼は中へと足を踏み入れる。


「だぁれ?」

 パジャマ姿の幼い少女が、クマのぬいぐるみを抱えながら廊下に立っていた。


「おじさんはね、君を救いに来たんだよ」

 名取はやさしい笑顔を浮かべながら、クロスボウを少女の腹部へと構える。

「——今、“ゼロ”に還してあげるからね」


 ヒュッ。


 音がしたかと思った次の瞬間、矢が少女の腹部を貫き、身体はそのまま後方へ倒れ込んだ。


「ひよりぃぃぃ!!」


 駆けつけた父親が叫び声を上げ、娘の身体を抱きかかえる。名取は躊躇なく、再びクロスボウを構え——発砲。


 父親の身体が崩れ落ちた。


 悲鳴を聞いて、キッチンから母親が飛び出してくる。


「やめてぇえええ!! 来ないで!!」

 包丁を握る手は震えていたが、必死の抵抗だった。


「大丈夫ですからね……みんな、救ってあげます」


 名取の目には一片の迷いもない。

 彼の言う“救い”は、現実からの解放という意味でしかなかった。


 矢が放たれ、母親の叫びが止む。


 静寂が訪れた家の中。

 名取は倒れた3人の腹部に、丁寧に“0”の文字を刻み込んでいく。


「……よし」


 クロスボウとナイフを元のケースにしまい、手袋を外して車へと戻る。

 カメラジャックを解除し、証拠の痕跡を一切残さぬまま、名取は夜の闇に消えていった。

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