飛鳥探偵事務所
夜、ようやく事務所に戻ってきた。飛鳥所長の姿はなかったが、念願のシャワーを浴びることができた。久々に浴びる温水の感触が、体の芯にまで染み込んでくる。
(……俺は何をやっているんだ)
浴室の湯気が薄れていくのと同時に、心の中に冷たい自問が残る。
あの異世界で誘拐された子供たちは、今もまだあの場所に囚われたままだ。
なのに俺は、こっちの世界で殺人事件の捜査に関わっている。
(やっぱ、あのとき……帰らない方がよかったんじゃないか)
——ピンポーン。
インターホンの音が、その迷いを打ち消した。
着替えて玄関を開けると、立っていたのはあの男だった。
「やあ、悠君」
「名取さん……?」
「食事を持ってきたんだ。もし良ければ、一緒にどうかな」
「ああ、じゃあ……どうぞ」
名取を汚れたソファに招き入れ、二人で向かい合って座る。
「サンドイッチを作ってきたよ」
名取は弁当箱を開き、綺麗に仕分けられたサンドイッチを二つ差し出した。
レタスとトマト、マヨネーズで和えられた卵。彩りと香りの調和に、思わず食欲をそそられる。
ひと口食べると、想像以上の味が口いっぱいに広がった。野菜嫌いの俺でも、これは美味いと思えた。
「……うまいな」
「気に入ってくれてよかった」
名取は微笑みながら、自分も一つ手に取る。
「名取さんって、将棋の棋士でしたよね?」
「ああ。テレビの将棋番組にも何度か出させてもらってる。……悠君もどうだい? 一局、付き合ってみるとか」
「いやいや、俺将棋なんて全然わからないし。名取さんとやっても、勝てる気がしませんよ」
「それはやってみなきゃわからないよ。人間には誰しも、生まれつき一つは光るものを持っている。探偵かもしれないし、将棋かもしれない。大事なのは、自分が何に向いているかを知ることだ。チャレンジしてみる価値は、きっとある」
「……かもしれないですね」
俺たちは静かに食事を終え、名取は「またね」とだけ言い残して、事務所をあとにした。
21:00 東京郊外・とある民家
名取は夜道を軽自動車で走らせ、郊外の静かな住宅地に車を停めた。
「……ここにしようか」
鼻歌を口ずさみながら、トランクを開ける。
彼が取り出したのは、小型のクロスボウと、銀色に光るポケットナイフだった。
ラップトップを開き、特定のコードを打ち込むと、周囲の街頭監視カメラのフィードが次々と停止する。
手際よくピッキングツールを取り出し、玄関の鍵を音もなく開けた。
「ふーんふんふーん♪」
無邪気な鼻歌と共に、彼は中へと足を踏み入れる。
「だぁれ?」
パジャマ姿の幼い少女が、クマのぬいぐるみを抱えながら廊下に立っていた。
「おじさんはね、君を救いに来たんだよ」
名取はやさしい笑顔を浮かべながら、クロスボウを少女の腹部へと構える。
「——今、“ゼロ”に還してあげるからね」
ヒュッ。
音がしたかと思った次の瞬間、矢が少女の腹部を貫き、身体はそのまま後方へ倒れ込んだ。
「ひよりぃぃぃ!!」
駆けつけた父親が叫び声を上げ、娘の身体を抱きかかえる。名取は躊躇なく、再びクロスボウを構え——発砲。
父親の身体が崩れ落ちた。
悲鳴を聞いて、キッチンから母親が飛び出してくる。
「やめてぇえええ!! 来ないで!!」
包丁を握る手は震えていたが、必死の抵抗だった。
「大丈夫ですからね……みんな、救ってあげます」
名取の目には一片の迷いもない。
彼の言う“救い”は、現実からの解放という意味でしかなかった。
矢が放たれ、母親の叫びが止む。
静寂が訪れた家の中。
名取は倒れた3人の腹部に、丁寧に“0”の文字を刻み込んでいく。
「……よし」
クロスボウとナイフを元のケースにしまい、手袋を外して車へと戻る。
カメラジャックを解除し、証拠の痕跡を一切残さぬまま、名取は夜の闇に消えていった。