飛鳥探偵事務所
扉を開けると、懐かしい煙草の匂いが鼻先をくすぐった。
窓際のデスクには、ポニーテールの女が脚を組んで座り、煙を燻らせている。
「おー、帰ってきたようだな、少年」
所長・中沢飛鳥は、軽く笑いながら振り向いた。
「ただいま戻りました」
俺はネクタイを緩め、埃の積もったソファに体を沈める。
「捜査の方はどうだ?」
「……正直、膠着状態です。新しい殺人現場が出たってのに、手がかりは皆無で」
「そりゃあ、難儀な話だ」
飛鳥は立ち上がり、ゆっくりと歩み寄ってきた。次の瞬間、隣に腰を下ろし、ためらいなく俺の肩にもたれかかる。
「……所長、やめてください。まだ昼間ですよ」
「それに、俺にはもう彼女がいるんで」
「ちぇっ、つれないやつめ」
軽く舌打ちし、飛鳥は立ち上がってキッチンへ向かう。
「コーヒー淹れるけど、飲むか?」
「お願いします」
やがて湯気を立てるマグカップが、俺の前の机にふたつ並ぶ。
その瞬間、ポケットの携帯がけたたましく鳴った。
「名取さん……?」
通話に出ると、低く落ち着いた声が響いた。
『君に見せたいものがある。すぐ終わる。僕の家まで来てくれないか』
「え? いきなり何ですか……まあ、時間はあるんで構いませんけど」
電話を切ると、隣の飛鳥が小さくつぶやいた。
「やめておけ」
「……え?」
「その“名取”ってやつには、深入りしないほうがいい。死にたくないならね」
真剣な声音だった。
「……勘ですか?」
「ただの勘さ。でも、私の勘が外れてばかりだと、信じてくれてるんだろ?」
飛鳥はマグカップを手にし、苦笑いを浮かべながら珈琲をすする。
東京都・品川 名取邸
「……うわ、でか」
和風の外観に石垣。外観だけで一目見て分かる、高級邸宅だった。
「棋士ってそんなに儲かるもんなんですかね……」
インターホンを押すと、重厚な音と共に門が開いた。
「名取さん、来ましたよ」
ゆっくりと開かれた門の先に現れたのは、着物姿の名取だった。
「ようこそ。悠、どうぞ中へ」
「いやこの扉の音……クッパ城以来ですよ、聞いたの」
名取は笑みを浮かべながら、悠然と邸内へ歩いていく。
玄関を抜けると、延々と続きそうな大理石の廊下が広がっていた。
無音の空間が、なぜか耳をざわつかせる。
「なぁ、悠君」
名取がぽつりと話しかけてきた。
「君は、犯人の動機を“スリルを味わいたいから”だと推理していたね?」
「まあ……はい」
名取はふと立ち止まる。そして、ある一室の前で言った。
「君となら、やっていけそうだ」
「……は?」
「さあ、中へ。これから見るものに、きっと驚くだろうね。わくわくするよ」
名取が開けたのは、古い木製の書斎扉だった。
中には、天井まで届きそうな本棚が壁一面に並び、薄暗い照明のもと、重苦しい空気が沈殿していた。
部屋の中央にあった小机の上に、ファイルが一冊置かれていた。名取がそれを手に取り、俺の前に差し出す。
「どうぞ、見てみてくれ」
受け取ったファイルを開くと、俺の脳が一瞬、思考を止めた。
中には、あの事件で殺害された被害者たちと思しき死体の写真——しかも、未公開のアングル、未報道の情報が収められていた。
これは……警察ですら持っていないレベルの情報だ。
沈黙の中、俺は名取をじっと見た。
「……あんたが、やったのか?」
問いかける声は、不思議なほど冷静だった。
「そうだよ。僕が犯人だ」
名取は、微笑んでいた。
日常の会話の延長線で言うように——まるで、それが何の罪でもないかのように。