警視庁 一階受付窓口
ざわつく空気が漂う警視庁の受付フロアは、どこか冷たく、時間が止まったような空間だった。
俺は一階へ降り立ち、岡本という女性刑事を探し始めた。
無数に並ぶ窓口ブースを通り過ぎるたび、警察官たちの声や足音が反響し、どこか遠くに感じられた。
――その時、耳元で低い囁きが聞こえた。
「……屋上で待ってる」
ハスキーな声。そのまま俺の脇を、小柄で丸眼鏡をかけた女性が通り過ぎていく。何気ない仕草だが、ただならぬ気配を放っていた。
――あれが、岡本か。
俺は一度深呼吸し、彼女とは別のエレベーターに乗り込んだ。
警視庁 屋上
冷たい風がビルの間を抜けて吹きつける中、彼女は無言で缶コーヒーを開けた。
「ようやく来たようね、探偵君」
淡々とした声色だった。
俺は懐から封筒を取り出し、歩み寄る。
「……あんたが岡本さんか? 山田刑事からの伝言だ。ここに長居はできない、ブツを渡す」
彼女は無造作に封筒を受け取り、手際よく中身を確認する。
「確かに、受け取ったわ」
「ところで……あなた、誘拐事件を単独で追っているの?」
俺は短くうなずいた。
すると岡本は、ふと視線を遠くにやりながら、こう続けた。
「そう。じゃあ、うちの部署に来る気はない? 私と山田刑事で立ち上げた特別調査班。あなたの経歴もざっと調べさせてもらったけど、正直――かなり乱暴だけど、期待してる。山田さんも最初から、あなたと組みたがってた」
その言葉に、一瞬だけ心が揺れた。
だが――無理だ。異世界のことに触れれば、俺は石になる。
この身体にかけられた呪いが、それを許さない。
「……悪いけど、遠慮しとく」
「そう。残念ね」
彼女はコーヒーを一気に飲み干すと、何も言わずにその場を去っていった。
飛鳥探偵事務所
「はぁ……ただいま戻りました……」
ドアを開けた瞬間、全身から力が抜けた。精神的にも限界が近い。
それなのに――
「お疲れ様。残念だけどね、浪野くん」
所長の声が冷たく響いた。
……やめてくれ。もう、これ以上の爆弾はいらない。
「ここ最近、事務所の仕事は放りっぱなし。警察にもマークされてるとか。君は一体どこまで誘拐事件に関与している? もしかして――誘拐された子供たちを一度見ているのでは?」
ズキンと胸を突かれた。まさか、ここまで見抜かれていたとは……。
頭が真っ白になる。何か言わなくちゃいけないのに、言葉が出てこない。
「……」
沈黙が重く空気を圧迫する中、所長はゆっくりと立ち上がった。
「さて。もう、興ざめだ。あーあ、人間ってのは、やはりその程度だったんだね」
コツ、コツ……と足音を響かせ、俺の目の前に立つと、低く呟いた。
「変身魔法――解除」
ふわりと、所長の姿が溶けるように変わっていった。
黒装束、鋭い目元、尖った耳……その姿は、人間ではなかった。
俺は即座にポケットに手を突っ込み、拳銃を抜いて構えた。
「……あんた、一体何者だ!」
「私はロイス。魔王討伐メンバーの一人よ」
信じがたい名が、その口からあっさりと出た。
「ずっと見てきたわ、あなたの活躍を。期待していたの。……ええ、最初から」
「本物の所長はどこだ、答えろ!」
ロイスはくすりと笑うと、柔らかく頷いた。
「二十年前、魔王を倒したあと、不老の魔法書を見つけた。そして"世界を繋ぐことのできる少年"のせいで、私はこの世界に迷い込んだの」
「それから長い間、山奥で身を隠していた。人間社会に溶け込む術を学びながら。そして八年前……東京に来て、飛鳥とかいう探偵を殺し、成り代わった」
あまりにも淡々と語るその言葉に、俺は銃口を震わせながら問い返した。
「じゃあ……最初から、本物の所長なんて、いなかったのか……」
「そういうことね」
「なぜ、今になってそれを明かした?」
ロイスは杖を取り出し、無言で俺に向ける。
「あなたが、もう限界に見えたからよ。私はこの誘拐事件に興味はない。でも――海賊も警察も魔族も、今のあなたには既に王手をかけている。次に変な動きをすれば、即座に警察が動くわ」
「だから助けてあげる。少しだけね」
ロイスは杖を大きく振り上げ、ひゅん、と風を切る音が鳴った。
その瞬間――
「う……っ! 体が、軽い……?」
「君にかけられていた“呪法ベベル”を除去したの。ヴェンデッタの魔法は強力だったけれど、私なら何とかできたわ」
信じられない。あの忌々しい呪いが――消えている。
俺の身体から、重苦しい束縛の感覚が、跡形もなく消えていた。