―十年前。
当時十二歳だった只野大樹は、日々、両親からの虐待に耐えながら生きていた。愛など存在しない家。殴打の痕が癒える前に、次の蹴りが飛んできた。そんなある日、彼は異世界から現れた海賊ティードに連れ去られた。ただの無力な子どもとして。
ガタン……ガタン……
雪山の山道を、複数の馬車が軋みながら進む。荷台には木製の檻。中には、震える子供たちの姿。泣き叫ぶ声が夜に吸い込まれていく。
「お母さん! お父さん……!」
救いを求める声に、応える者はいなかった。
大樹は檻の隅で小さく身を丸めていた。冷たい空気が頬を刺し、歯がカタカタと鳴る。
ふと、視界の端で、檻の床に光るものがあった。
「え……?」
小さな銀の指輪。それはどこか荘厳な輝きを放っていた。
「なんだろう……これ……」
そのときだった。
ズバーンッ!
甲高い斬撃音が響き、檻が真横に割れた。次の瞬間、馬車が轟音とともに転倒する。
「う、うぅ……!」
気を失いかけながら目を開けると、横倒しになった馬車の向こう側、子供たちの亡骸の先に、青いマントを翻した男が海賊の胸ぐらを掴んでいた。
「おい、下っ端。王家の指輪はどこだ」
冷徹な声で男が尋ねる。
「ひ、ひぃえぇ! 俺は何も知らねぇ! 見逃してくれぇ!」
怯えきった下っ端海賊が喚くが、男は目を細めた。
「ならば……また地獄で会おう」
ザクッ。
短く、重い音。海賊の胸を一突きにして、男はその命を断った。
「……ん?」
もう一人の男――メントが、こちらを見ていた。
大樹はとっさに身を伏せた。震えが止まらない。
「人間。お前、その指にはめている指輪……どこで拾った?」
大きな男が、低く問うた。
「お、檻の中で……拾いました……」
「それは我らのものだ。返してもらおう」
メントが手を差し出す。大樹は指輪を外し、震える手で差し出した。
「感謝する。君が拾わなければ、指輪は雪の中に消えていたかもしれぬ」
青いマントの男――クライスが、微笑を浮かべた。
「……これも何かの縁だ。君を兵士として雇ってやる」
「え……?」
「選べ。ここで死ぬか。我らの仲間になるか」
しばらくの沈黙ののち、大樹はかすれた声で答えた。
「……仲間にしてください」
クライスは、にこりと微笑んだ。
「賢い選択だ。いいだろう。……お前、名前は?」
「た、只野大樹です」
「呼びづらいな……そうだ。今日からお前の名は“ダグ”だ」
「……どうして助けてくれるんですか……?」
クライスの瞳に、遠い記憶の影が差した。
「かつての仲間に、似ていたからかな。私と共に、魔王を討った……ある人間に」
―現在、池袋交差点。
ティードが足音を響かせながら歩き出す。背後には、頭部を吹き飛ばされたダグの亡骸。
「貴様に、俺は殺せない」
その背に、ひゅう、と風が走った。
「……はぁ、はぁ……まだだ……。これ以上、好きにはさせねぇ……!」
血まみれの身体で、ダグは再び立ち上がる。
この世界に戻りたいと思ったことなど一度もなかった。戻れば、あの地獄の家が待っている。だが――
「他の人間まで巻き込むお前だけは……許せねぇ!」
「うおおおおおおおっ!!!」
魂の咆哮とともに、彼は竹槍を拾い、ティードの背に向かって放った。
「ぐおっ……!」
背中に槍が突き刺さる。その一瞬の隙を突き、ダグは魔力を練り上げた。
「出し惜しむな……これで一気に決めるんだ!」
足元に、青白く輝く魔法陣。水のサークルが現れ、周囲の空気を震わせる。
「いけぇぇぇっ!! 最後の――ドルフィンズ!!!」
バシャアァンッ!!
巨大なイルカの水獣が飛び出し、ティードに向かって突撃した。
「まずい……!」
ドゴォォォォンッ!!
爆発の余波が辺りを吹き飛ばす。
ダグは、膝をついた。魔力は限界だった。もう、立てない。
ティードは、煙の中から歩み出る。
「惜しかったな、槍兵」
次の瞬間、ダグの背後にその気配が現れた。
「……う、嘘だろ……」
バァン!
銃声が、夜の静寂を破る。
ダグの頭が砕け散り、肉片が宙を舞った。
そして、彼はゆっくりと、血だまりに沈んでいった。