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第3話

 あの晩、誰も眠ることはできなかった。

 集落の宿に戻った一行は、言葉少なに部屋に引きこもり、それぞれが見たもの、聞いたものを、口にすることさえ躊躇っていた。

 ――顔のない女。

 ――祠の底から這い出た「それ」。

 ――耳に残る声。

「わたしを……わすれたのか……」

 その一言が、全員の頭にこびりついて離れなかった。

「……あれ、誰だったんだろう」

 深夜、にこがぽつりと口にした。隣に座っていた達也は、黙って首を振る。

「知らない。でも、“何か”ってことだけは……わかった」

「やっぱり、あの祠……普通じゃないよ。あんなの……私、生まれて初めて見た」

 にこは、普段は論理で動く人間だった。だからこそ、その彼女が震えている事実が、現実味を増していた。

「達也。……これ、私たち、壊しちゃったのかな」

「……ああ。祠も、柱も。たぶん、封印ってやつだったんだと思う」

「じゃあ、あれは……」

 にこは言いかけて、唇を噛んだ。その先の言葉が口に出せない。出したら、認めてしまうから。

「ねえ、これ、ちゃんと村の人に話そうよ。誰か知ってる人、いるはずだよ」

「……でも、あの老婆以外、誰もあの祠に触れようとしなかった。きっと、ずっと“触れてはならないもの”だったんだ」

「……それでも、見て見ぬふりなんてできない」

 にこが言い切ったとき、廊下の方から奇妙な物音が聞こえた。

 ――ずる。

 ――ずるずる……。

 達也は息を呑んだ。あの音は、祠の中で聞いた音と、まったく同じだった。

「……外、見てくる」

「やめて!」

 にこが彼の手を掴んだ。いつになく強い力だった。けれど、達也はその手をやさしく外した。

「大丈夫。行ってくるだけ」

 そう言って玄関を開けた瞬間――彼は凍りついた。

 目の前、廊下の向こうに「それ」はいた。

 灯りが落ちた廊下。提灯の明かりの奥、柱の陰に「女」が立っていた。白い布のようなものをまとっていて、だらりと長い髪が顔を隠している。

 ……顔が、ない。

 達也は理解した。間違いない。祠から出てきた“あれ”だ。

 女は動かない。だが、そこにいるだけで空間の空気が歪んだように感じた。重い。冷たい。何より、「圧」がある。

「――っ!」

 達也は反射的にドアを閉めた。

「いた。……いた。あれが……いた」

 彼は声を震わせながら言った。にこは青ざめながら、静かに言った。

「呼ばれてる……よね。私たち。あの声、“忘れたのか”って……」

 そのとき、電話が鳴った。驚いてスマホを手に取ると、それは亮佑からだった。

『達也か……おまえんとこ、出てねぇか……“あれ”』

「やっぱり……亮佑のとこにも?」

『うん。俺と佳澄、それに希望も同じ部屋なんだけど……いま、窓の外に立ってる。“顔のない女”』

「にげろ。ドア閉めろ。絶対開けるな!」

 達也は叫んだ。その時、受話器の向こうで何かが割れる音が聞こえた。佳澄の悲鳴、亮佑の怒鳴り声――

『ちょっと! 佳澄、後ろ――っ!!』

 プツッ。

 通話が切れた。

「……亮佑たちが……!」

 にこは泣きそうな顔をして達也を見つめた。何が起きているのか、想像するのは容易かった。今、この村全体で、あの祟りが目を覚ましたのだ。

 いや、正確には――

“忘れられた何か”が、思い出されようとしている。

 達也は、村の老婆の言葉を思い返した。

 ――封じてある。

 ――昔、恐ろしいことがあったのさ。

 ――これで封じたのじゃ。

 ――忘れろ。

 忘れられていた。だから、静かだった。だが、それを壊したのだ。自分たちの無邪気さが、無知が、祟りの封印を解いた。

 その瞬間、彼のスマホが再び鳴った。今度は「非通知」。

「……もしもし?」

『……おまえ、思い出すな。……目を閉じて……“名を呼ぶな”……』

 聞こえてきたのは、老婆の声だった。

『“名を呼ぶな”……呼んだら、もう戻れん……』

 そう言って、通話は切れた。

 にこが震える声で聞いた。

「……名って……誰の?」

 達也は、ただ黙って首を振るしかなかった。

 だがその瞬間。頭の奥、聞いたことのない記憶のような感覚が、波のように押し寄せてきた。

 ――ナオ。

 ――ナオ。

 ――ナオ。

 耳元で、誰かが呼んでいる。

 ナオ?

 誰だ、それは?

 俺は……知らない。……はずだった。

 だが、その名を口に出しかけた瞬間、にこが絶叫した。

「ダメッ! 言わないで!!」

 達也は、その言葉に引き戻されるように、口を閉じた。

 背筋に氷柱を打ち込まれたような感覚。

「……あれの“名”か」

 にこは震えながら言った。

「……私たち、もう普通には戻れないよ」


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