あの晩、誰も眠ることはできなかった。
集落の宿に戻った一行は、言葉少なに部屋に引きこもり、それぞれが見たもの、聞いたものを、口にすることさえ躊躇っていた。
――顔のない女。
――祠の底から這い出た「それ」。
――耳に残る声。
「わたしを……わすれたのか……」
その一言が、全員の頭にこびりついて離れなかった。
「……あれ、誰だったんだろう」
深夜、にこがぽつりと口にした。隣に座っていた達也は、黙って首を振る。
「知らない。でも、“何か”ってことだけは……わかった」
「やっぱり、あの祠……普通じゃないよ。あんなの……私、生まれて初めて見た」
にこは、普段は論理で動く人間だった。だからこそ、その彼女が震えている事実が、現実味を増していた。
「達也。……これ、私たち、壊しちゃったのかな」
「……ああ。祠も、柱も。たぶん、封印ってやつだったんだと思う」
「じゃあ、あれは……」
にこは言いかけて、唇を噛んだ。その先の言葉が口に出せない。出したら、認めてしまうから。
「ねえ、これ、ちゃんと村の人に話そうよ。誰か知ってる人、いるはずだよ」
「……でも、あの老婆以外、誰もあの祠に触れようとしなかった。きっと、ずっと“触れてはならないもの”だったんだ」
「……それでも、見て見ぬふりなんてできない」
にこが言い切ったとき、廊下の方から奇妙な物音が聞こえた。
――ずる。
――ずるずる……。
達也は息を呑んだ。あの音は、祠の中で聞いた音と、まったく同じだった。
「……外、見てくる」
「やめて!」
にこが彼の手を掴んだ。いつになく強い力だった。けれど、達也はその手をやさしく外した。
「大丈夫。行ってくるだけ」
そう言って玄関を開けた瞬間――彼は凍りついた。
目の前、廊下の向こうに「それ」はいた。
灯りが落ちた廊下。提灯の明かりの奥、柱の陰に「女」が立っていた。白い布のようなものをまとっていて、だらりと長い髪が顔を隠している。
……顔が、ない。
達也は理解した。間違いない。祠から出てきた“あれ”だ。
女は動かない。だが、そこにいるだけで空間の空気が歪んだように感じた。重い。冷たい。何より、「圧」がある。
「――っ!」
達也は反射的にドアを閉めた。
「いた。……いた。あれが……いた」
彼は声を震わせながら言った。にこは青ざめながら、静かに言った。
「呼ばれてる……よね。私たち。あの声、“忘れたのか”って……」
そのとき、電話が鳴った。驚いてスマホを手に取ると、それは亮佑からだった。
『達也か……おまえんとこ、出てねぇか……“あれ”』
「やっぱり……亮佑のとこにも?」
『うん。俺と佳澄、それに希望も同じ部屋なんだけど……いま、窓の外に立ってる。“顔のない女”』
「にげろ。ドア閉めろ。絶対開けるな!」
達也は叫んだ。その時、受話器の向こうで何かが割れる音が聞こえた。佳澄の悲鳴、亮佑の怒鳴り声――
『ちょっと! 佳澄、後ろ――っ!!』
プツッ。
通話が切れた。
「……亮佑たちが……!」
にこは泣きそうな顔をして達也を見つめた。何が起きているのか、想像するのは容易かった。今、この村全体で、あの祟りが目を覚ましたのだ。
いや、正確には――
“忘れられた何か”が、思い出されようとしている。
達也は、村の老婆の言葉を思い返した。
――封じてある。
――昔、恐ろしいことがあったのさ。
――これで封じたのじゃ。
――忘れろ。
忘れられていた。だから、静かだった。だが、それを壊したのだ。自分たちの無邪気さが、無知が、祟りの封印を解いた。
その瞬間、彼のスマホが再び鳴った。今度は「非通知」。
「……もしもし?」
『……おまえ、思い出すな。……目を閉じて……“名を呼ぶな”……』
聞こえてきたのは、老婆の声だった。
『“名を呼ぶな”……呼んだら、もう戻れん……』
そう言って、通話は切れた。
にこが震える声で聞いた。
「……名って……誰の?」
達也は、ただ黙って首を振るしかなかった。
だがその瞬間。頭の奥、聞いたことのない記憶のような感覚が、波のように押し寄せてきた。
――ナオ。
――ナオ。
――ナオ。
耳元で、誰かが呼んでいる。
ナオ?
誰だ、それは?
俺は……知らない。……はずだった。
だが、その名を口に出しかけた瞬間、にこが絶叫した。
「ダメッ! 言わないで!!」
達也は、その言葉に引き戻されるように、口を閉じた。
背筋に氷柱を打ち込まれたような感覚。
「……あれの“名”か」
にこは震えながら言った。
「……私たち、もう普通には戻れないよ」