明け方、灰名村には霧が立ち込めていた。
夜の出来事がすべて夢だったなら――。
誰もがそう願った。だが現実は、もっと残酷だった。
達也のもとに連絡がつかなくなった亮佑たちを探しに行くと、宿の部屋は荒れ、室内には微かな血の跡と、焦げたような臭いだけが残されていた。
人の気配はない。警察に連絡しようにも、電話は繋がらず、村の固定回線も「故障中」の紙が貼られていた。
「これって、……まさか、村ぐるみで」
佳澄の言葉に、将が首を横に振った。
「違う。村人たちの顔、見たか? 全員が何かに怯えてる顔だった。俺たち以上に、あの“何か”を知ってる目をしてた」
「じゃあ……なぜ何も教えてくれなかったの?」
にこが言った。希望が腕を組みながら呟いた。
「“言えない”んじゃないの。“忘れろ”って言ってた。思い出すこと自体が……禁じられてるんだよ」
「それって、どういう……」
そのとき、宿の外から誰かが入ってきた。あの老婆だった。夜に出会った、祠の前で警告した女。
「……ついて来なさい。話してやるよ」
彼女はそれだけ言い残すと、振り返って歩き出した。
達也たちは顔を見合わせ、一も二もなく後を追った。
老婆が案内したのは、村の外れの崖際に建つ古い御堂だった。屋根は崩れ、扉は朽ちかけている。だがその中には、供え物の残骸と、一体の古びた地蔵が鎮座していた。
「……ここに、“ナオ”を祀っておった」
老婆の口から出た名に、達也の背筋がぞわっと粟立った。
「……それは、さっき頭の中で……」
「もう、始まっておるな。お前さんたちは“見て”しまった。“壊して”しまった。なら、聞く権利はある」
老婆は、重い口を開いた。
「昔――百年、いや、もっと前かもしれん。灰名村には“ヒトではない者”が生まれた。人の姿をしておるが、人ではない。口がなかった。目も鼻も、なかった。だが、何かが宿っておった」
老婆は地面に座り込み、語り続ける。
「“それ”は、言葉を持たぬまま育った。村の者たちは気味悪がり、名を与えず、ただ『ナオ』と呼んだ。“なおすもの”、という意味じゃ。……祟りを、病を、“直す”と信じられたんじゃよ」
「信じられて……いた?」
にこが聞き返す。老婆は、静かにうなずいた。
「最初はな。“ナオ”は病を吸い取り、祟りを鎮める力を持っていた。だが、それは“生贄”じゃ。ナオの身に、災厄が集まり、次第に“災厄そのもの”になった」
「……呪いの器、ってこと?」
将の呟きに、老婆は目を閉じて続けた。
「ナオは、最後には“人を喰った”。それも、生きたまま。目が見えぬ代わりに、人の声に反応して動いた。“呼ばれたら来る”……そうなった」
「それで、封印した?」
「ああ。村人たちは、祠を建て、その中に柱を立てた。ナオの“形”を焼き、柱で封じ、声を聞かぬよう注連縄を張った。“名を呼ぶな”、“忘れろ”。それが唯一の封印じゃった」
老婆は、達也たちを見た。
「……その封印を、壊したのじゃ。ナオは“戻ってきた”。名を求め、忘れられた己を、思い出させようとしておる。お前さんたちの“記憶”を、喰ってな」
「記憶を?」
達也の胸に、ふと浮かんだ疑問。
今朝、何を食べた?
昨日、誰と話した?
一昨日の夢は?
……曖昧だ。ぼやけている。
何かが、確実に削られている。
「いずれ、“お前”という存在ごと、あれに取り込まれるじゃろう」
老婆は悲しげに言った。
「だが、唯一の方法がある。ナオを再び封じるには、“名を与える”のじゃ」
「……名を? でも、それって――」
「代償がある。“名”を与えた者は、ナオの代わりに、“封じられる”」
一同が凍りついた。
「自分を……封印するってことですか?」
にこの問いに、老婆は黙って頷いた。
「誰かが、“ナオの名”となって、代わりに存在を閉じ込める。でなければ、ナオは永遠に彷徨い、記憶を喰らい、人を喰らい続ける」
言葉が出ない。
沈黙が広がる。
それが、「選択」だった。
その瞬間、澪がぽつりと言った。
「私、……昔、ここに来たことがある」
全員が、息を呑んだ。
「夏休みに、一度だけ。……親戚がいて。……でも、覚えてない。でも、思い出した。……あの祠、……その前で、“名前を呼んだ”記憶がある」
「じゃあ……おまえ……」
将が息を詰める。澪は、自分の両肩を掴みながら言った。
「……私が、“最初”かもしれない。“ナオ”の、名前を最初に与えたのが、私かもしれない……」
その瞳に、泣きそうな光と、覚悟の色が重なっていた。