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第4話

 明け方、灰名村には霧が立ち込めていた。

 夜の出来事がすべて夢だったなら――。

 誰もがそう願った。だが現実は、もっと残酷だった。

 達也のもとに連絡がつかなくなった亮佑たちを探しに行くと、宿の部屋は荒れ、室内には微かな血の跡と、焦げたような臭いだけが残されていた。

 人の気配はない。警察に連絡しようにも、電話は繋がらず、村の固定回線も「故障中」の紙が貼られていた。

「これって、……まさか、村ぐるみで」

 佳澄の言葉に、将が首を横に振った。

「違う。村人たちの顔、見たか? 全員が何かに怯えてる顔だった。俺たち以上に、あの“何か”を知ってる目をしてた」

「じゃあ……なぜ何も教えてくれなかったの?」

 にこが言った。希望が腕を組みながら呟いた。

「“言えない”んじゃないの。“忘れろ”って言ってた。思い出すこと自体が……禁じられてるんだよ」

「それって、どういう……」

 そのとき、宿の外から誰かが入ってきた。あの老婆だった。夜に出会った、祠の前で警告した女。

「……ついて来なさい。話してやるよ」

 彼女はそれだけ言い残すと、振り返って歩き出した。

 達也たちは顔を見合わせ、一も二もなく後を追った。

 老婆が案内したのは、村の外れの崖際に建つ古い御堂だった。屋根は崩れ、扉は朽ちかけている。だがその中には、供え物の残骸と、一体の古びた地蔵が鎮座していた。

「……ここに、“ナオ”を祀っておった」

 老婆の口から出た名に、達也の背筋がぞわっと粟立った。

「……それは、さっき頭の中で……」

「もう、始まっておるな。お前さんたちは“見て”しまった。“壊して”しまった。なら、聞く権利はある」

 老婆は、重い口を開いた。

「昔――百年、いや、もっと前かもしれん。灰名村には“ヒトではない者”が生まれた。人の姿をしておるが、人ではない。口がなかった。目も鼻も、なかった。だが、何かが宿っておった」

 老婆は地面に座り込み、語り続ける。

「“それ”は、言葉を持たぬまま育った。村の者たちは気味悪がり、名を与えず、ただ『ナオ』と呼んだ。“なおすもの”、という意味じゃ。……祟りを、病を、“直す”と信じられたんじゃよ」

「信じられて……いた?」

 にこが聞き返す。老婆は、静かにうなずいた。

「最初はな。“ナオ”は病を吸い取り、祟りを鎮める力を持っていた。だが、それは“生贄”じゃ。ナオの身に、災厄が集まり、次第に“災厄そのもの”になった」

「……呪いの器、ってこと?」

 将の呟きに、老婆は目を閉じて続けた。

「ナオは、最後には“人を喰った”。それも、生きたまま。目が見えぬ代わりに、人の声に反応して動いた。“呼ばれたら来る”……そうなった」

「それで、封印した?」

「ああ。村人たちは、祠を建て、その中に柱を立てた。ナオの“形”を焼き、柱で封じ、声を聞かぬよう注連縄を張った。“名を呼ぶな”、“忘れろ”。それが唯一の封印じゃった」

 老婆は、達也たちを見た。

「……その封印を、壊したのじゃ。ナオは“戻ってきた”。名を求め、忘れられた己を、思い出させようとしておる。お前さんたちの“記憶”を、喰ってな」

「記憶を?」

 達也の胸に、ふと浮かんだ疑問。

 今朝、何を食べた?

 昨日、誰と話した?

 一昨日の夢は?

 ……曖昧だ。ぼやけている。

 何かが、確実に削られている。

「いずれ、“お前”という存在ごと、あれに取り込まれるじゃろう」

 老婆は悲しげに言った。

「だが、唯一の方法がある。ナオを再び封じるには、“名を与える”のじゃ」

「……名を? でも、それって――」

「代償がある。“名”を与えた者は、ナオの代わりに、“封じられる”」

 一同が凍りついた。

「自分を……封印するってことですか?」

 にこの問いに、老婆は黙って頷いた。

「誰かが、“ナオの名”となって、代わりに存在を閉じ込める。でなければ、ナオは永遠に彷徨い、記憶を喰らい、人を喰らい続ける」

 言葉が出ない。

 沈黙が広がる。

 それが、「選択」だった。

 その瞬間、澪がぽつりと言った。

「私、……昔、ここに来たことがある」

 全員が、息を呑んだ。

「夏休みに、一度だけ。……親戚がいて。……でも、覚えてない。でも、思い出した。……あの祠、……その前で、“名前を呼んだ”記憶がある」

「じゃあ……おまえ……」

 将が息を詰める。澪は、自分の両肩を掴みながら言った。

「……私が、“最初”かもしれない。“ナオ”の、名前を最初に与えたのが、私かもしれない……」

 その瞳に、泣きそうな光と、覚悟の色が重なっていた。


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