御堂を出た瞬間、空気が変わっていた。
深く、湿った風が肌にまとわりつく。
風があるのに、音がない。鳥も、虫も、風鈴も、何も鳴らない。
ただ――聞こえるのは、耳の奥に染みついた「呼び声」。
――ナオ。
――わたしを、よんだ。
――また、わすれたのか。
「……澪、本当に“記憶”が戻ってきてるのか?」
達也の問いに、澪は首を横に振った。
「いいえ。正確には、“思い出させられてる”気がする。“あの存在”が私の中に残してた何かを、少しずつ……引っ張り出してる」
「つまり、あれに“繋がれてる”ってこと?」
にこの声が強張る。希望は頭を抱えて、「最悪だな」と小さく唸った。
「待ってよ。だったら澪は……もう“逃げられない”ってことじゃん……!」
俊太の声が、怯えと苛立ちに揺れている。場の緊張が爆発しそうになった時、佳澄がすっと前に出た。
「……決めるのは、澪よ。私たちが何か言う資格は、ない」
「でも!」
「違う、俊太。“助ける”っていうのは、“代わりに背負わせる”ってことじゃない」
佳澄の静かな言葉に、全員が口をつぐんだ。
その時だった。
「……見ろ」
将が声を漏らした。御堂の入り口から、村の中心部を見下ろせる場所に立つと、そこにはあり得ない光景が広がっていた。
村の家々の屋根。川沿いの水車。田畑の間。
その至る所に、白い影が立っていた。
それは全て、顔のない女の姿。
見えないはずの“目”で、確実にこちらを見ているとわかる。
「……出てきた……」
亮佑が呟く。彼の頬には浅い切り傷が走っていた。行方不明だった彼らが、いつのまにか戻っていたのだ。
「佳澄と希望は……無事?」
達也が問いかけると、亮佑は重く頷いた。
「今は……な。けど、夜が来たらわからない。“ナオ”は、俺たちを“選ぼうとしてる”」
「選ぶ?」
「誰が、自分を“忘れたか”。誰が、“思い出しかけているか”。そして、誰を“代わりにできるか”」
亮佑の目は、すでに戦っていた者のそれだった。
「――ナオは、ひとりになった。忘れられて、消えた。“自分”を取り戻したいんだ」
「記憶を……名前を、手に入れて」
「そうだ。そして、今夜……“誰かが代わりになる”」
皆の視線が、自然と澪に向かった。
だが、澪は真っ直ぐ前を見据えていた。
「……私、やる」
「待てよ! そんなの、“死ね”って言ってるようなもんだろ!」
俊太が叫んだ。希望がそれに続く。
「澪、あなたは……別に、“責任”とか背負わなくていい」
「でも、私……わかるの。呼ばれてる。私を呼んでる。あれは“私の中にあるナオ”を見てる」
澪の言葉は、恐ろしく静かだった。
「だから、逃げられない。なら――“終わらせる”」
老婆が、すっと御堂の奥から古い包みを持って出てきた。
「これが、“封印の式具”じゃ」
古びた木箱の中には、焦げた木札と、墨の壺、細い縄。そして、人骨のようなものを組み合わせた何かが入っていた。
「ナオに“名”を与え、祠の下に自らを封じる儀式じゃ。生者が行えば、“代わり”になる。だが……終わらせられる」
「儀式はいつ?」
「今夜、丑三つ時。月が真上に来る時刻、“あれ”が一番、力を持つ時間。逆に言えば、封じる最後のチャンス」
静まり返った空気の中で、誰もが時計を見た。今は、夜の十時。
――あと三時間。
全員が、顔を見合わせた。
それが、最後の夜になることを誰もが感じていた。
そしてその時、達也はゆっくりと澪に近づき、言った。
「一緒に行くよ。お前を一人にはしない」
「でも……私、戻れないよ?」
「それでも」
にこも歩み寄る。
「私も。……あの時、止められたのに、止めなかったから」
亮佑、希望、将、佳澄、大祐、有紀――
誰一人、離れなかった。
それは、恐怖に対する挑戦ではなかった。
“忘却された存在”を、もう一度、“記憶する”という行為だった。
人は、恐れるものを封じ、そして“忘れる”。
だが、それが祟りを生む。
ならば、恐れてでも――思い出し、引き受けることが、終わらせる唯一の手段なのかもしれない。
そして、深夜――
彼らは、再び、あの祠へと向かう。