祠へと続く山道は、まるで別世界のようだった。
月明かりは雲に隠れ、懐中電灯の光だけが頼りだった。風が止み、獣の気配もない。どこまでも“無音”。足音だけが、やけに大きく響いた。
「まるで……この世じゃないみたいだな」
将が苦笑交じりに呟く。誰も返事はしなかった。
祠が見えた。
注連縄は完全に落ち、扉も開け放たれたまま。中からは、焦げたような臭いが漂っている。かつて柱が立っていた穴は、すでに深く開かれ、黒い闇の口となっていた。
達也が周囲を確認する。
「……来てない。まだ“あれ”は現れてないみたいだ」
「来るよ。丑三つ時に」
澪が静かに言った。彼女は、老婆から受け取った封印の道具をしっかりと抱えていた。
「準備しよう」
全員が頷く。
地面に印を描く。木札を穴の周囲に並べ、縄を張り、墨で澪の名前を記した紙を一枚、祭壇のように置いた。
「……“名”を与えるって、どういう感じなんだろうな」
大祐が呟く。誰も答えなかった。誰も、それを体験した人間が生き残った話を聞いたことがないからだ。
「ねぇ……怖い?」
にこが澪に尋ねる。澪はゆっくりと首を縦に振った。
「うん。すごく、怖い。でも……私、自分が何をしたのかを、思い出した気がする」
「“ナオ”に名前を呼んだ?」
「ううん。……あれに“名前を与えろ”って、言われたの。たぶん、あれはずっと誰かを探してた。自分を忘れた世界に復讐したくて。けど、私には……憐れみに見えた」
静寂が深まる。
「だから、あの時私は“名前をあげた”。……“わたしが、あなたの名前になる”って」
「……それが“封印”だった?」
「わからない。でも、あれは私を忘れなかった。私の中に、ずっといた」
達也は息を呑んだ。
――それが、澪が他人と違って“自然体”でいられた理由だったのかもしれない。恐怖や不安があっても、簡単には揺るがない彼女の芯の強さ――それは、あの存在と共に過ごした“何か”だったのか。
そのとき――
空気が、変わった。
突風。
墨が揺れ、縄が軋み、木札が音を立てた。
「来た……!」
亮佑が叫んだ瞬間、祠の穴から“白い影”がゆっくりと現れた。
髪は長く垂れ、顔はやはり無い。ただ、口元だけが裂けて、ひくひくと動いていた。
「わたしを……また……わすれた……のか」
“それ”の声が、直接、脳の奥に届いた。
鼓膜ではない。感情に“突き刺さる”声。
「……私は、覚えてる!」
澪が、声を張り上げた。
「ナオ、あなたは……私と一緒にいた。あの日も、あの祠の中でも。忘れてなんかない……!」
“それ”が動きを止める。微かに揺れた。
「だから、もう終わらせよう。あなたの名は――“澪”。」
達也が目を見開いた。
「――おい、待て! それって!」
「わたしが、あなたの名になる。今度は、私が全部、引き受ける。祠も、記憶も、恐怖も。あなたが“いなければならない理由”も、もう、終わりにしていい」
風が止まった。
“それ”が、泣いているように見えた。
顔がないのに、声もないのに、確かに“感情”があった。
澪は、歩き出す。ゆっくりと、祠の穴へ。
仲間たちは、誰一人止めることができなかった。
「――澪!!」
達也が叫んだ。だがその声が届いた時には、彼女の足はすでに、黒い穴の中へと沈んでいた。
白い影が、すっと彼女に寄り添う。
やがて、その姿も光も、すべてが闇の中へと吸い込まれていった。
沈黙。
注連縄が風に揺れ、墨が一滴だけ地面に落ちた。
すると――
祠の穴が、音もなく閉じていく。
木が再び根を張り、焦げた地面に新しい苔が生え始める。
空が、ゆっくりと明るくなっていった。
夜が、終わった。