朝が来た。
山の端から射し込む光は、どこまでも静かで、温かくすら感じられた。風も戻り、鳥の声が遠くで聞こえた。
あの夜の記憶が、嘘だったかのように。
――だが、嘘ではなかった。
祠は、かつての姿に戻っていた。倒れた柱も、崩れた注連縄も、すべてが“元通り”に。まるで、最初から壊れてなどいなかったかのように。
「……澪は?」
誰かが尋ねた。
だが、答えられる者はいなかった。
祠の中に彼女の姿はない。痕跡もない。
けれど、彼女がそこに“いた”という記憶は、確かに残っていた。
「……これが、“封印”ってことなのか?」
将の問いに、老婆がふたたび静かに頷いた。
「“名”を与えた者は、“記憶”としてその場に残る。“ナオ”としてではない。“人”として。……だが、それがどれほどもつかは、わからん」
「もつ……?」
達也が顔を上げる。老婆は、遠くを見つめながら言った。
「ナオという“災い”は、忘却から生まれた。ならば、“記憶され続ける限り”再来は防げる。だが、人間は忘れるものじゃ。いつか、また誰かが忘れ、封印を壊すじゃろう」
「……また、誰かが澪みたいに、犠牲になるってことですか?」
にこが問い詰めるように言ったが、老婆は首を振った。
「いや……今度は違う。おまえたちは“語った”。“覚えている”。この村の者にはできなかったことじゃ」
老婆は、祠に近づき、静かに頭を下げた。
「……この祠は、もう一度封じられた。だが、今度は“ただの封印”ではない。“名を持つ祠”になったのじゃ。“澪”という名と共に――な」
「なら……俺たちが、このことを語り継げばいい?」
達也の問いに、老婆は微笑んだ。
「そうじゃ。語れ。決して“忘れるな”。それが、“祟り”を終わらせる唯一の方法じゃ」
■
東京に戻った後も、達也たちは月に一度、灰名村を訪れた。
祠の前に花を手向け、手を合わせる。
「澪」という名を口に出して呼ぶ。
それだけのことだったが、誰も、それを怠らなかった。
都会の雑踏に紛れても、あの夜の冷たい空気と、“あの影”の気配だけは、忘れることがなかったからだ。
にこは、日記を書き続けた。
俊太は、語り部として大学の民俗研究会に加入した。
亮佑は、自分の体験を脚色せずに記録にまとめた。
希望と将は、灰名村での「語りの場」を作る計画を始めていた。
そして達也は――
ある夜、部屋の壁に向かって呟いた。
「澪。……俺は、忘れないよ」
その時、風が静かにカーテンを揺らした。
音もなく、優しく。
まるで、どこかから“ありがとう”の声が届いたかのように。
■
ある年の、夏の終わり。
灰名村に訪れた観光客が、うっかり立ち入ってはいけない山道に迷い込み、古い祠の前で足を止めた。
彼は何も知らない。ただの風景だと思った。
「……あれ? なんか名前、書いてあるな……“澪”?」
彼が口にした瞬間――
祠の奥で、風鈴のような音が、一つだけ鳴った。
その意味を、彼は知らない。
だがそれはきっと――
“名を思い出す”ことで、今はまだ、守られているという
かすかな「希望」だった。
完