その夜。理紗は、夢の中で“名前を呼ばれていた”。
はっきりとは聞こえない。
けれど、誰かが――何かが――確かに「呼んでいる」。
──リ……
──……サ……
目を覚ますと、額にうっすらと汗をかいていた。隣のベッドで寝ているはずの桐子の布団が乱れている。
「……トイレ?」
そう思ってカーテンを少し開けると、外の道に立っている影が見えた。
白い服。長い髪。顔は、窓の角度では見えない。
「桐子……? なんで、外に?」
理紗はそっと部屋を抜け出し、宿の玄関を出た。
だがそこに、桐子の姿はなかった。
「あれ……?」
辺りは静まり返っている。外灯の光に照らされているはずの道路も、なぜか数メートル先で途切れたように“闇に沈んで”いる。
理紗は慎重に歩を進めた。
足元にざらついた砂利の感触。草のにおい。遠くでフクロウが鳴いたような音――
「…………っ!」
暗闇の中から、**「裂ける音」**が響いた。
布が引き裂かれるような、肉が裂けるような音。
理紗は咄嗟に後ずさり、民宿の玄関に駆け戻る。扉を閉めた瞬間――何かが外から“押し返してくる”感覚があった。
誰かが、扉の向こうに“いる”。
……でも、ノックはしない。
ただ、“じっと見ている”。
理紗は震えながら、鍵をかけ、息を潜めた。
翌朝、桐子は普通に戻っていた。
まるで、何事もなかったかのように。
「昨日? あたし、ずっと寝てたよ? 外なんか行ってないけど?」
理紗は、それ以上は言えなかった。
だが――桐子の目が、昨日と“違っていた”。
いつもなら穏やかで、笑いながら「記録魔なの」と言ってメモを取るその姿勢が、どこか、ぎこちない。
「桐子……昨日、どんな夢見た?」
理紗がさりげなく聞くと、桐子は少しだけ考えてから言った。
「……なんか、“誰かに呼ばれてた”夢。遠くから……こう、名前を繰り返されるような……」
理紗の心が跳ねた。
「それって……“澪”って呼ばれなかった?」
桐子は一瞬だけ止まって、首を横に振った。
「ううん。“私の名前”を呼んでたよ。……でも、変だった。私自身が、“自分の名前じゃない”って、感じてた気がする」
「……名前じゃない名前……?」
そこへ慶悟がやってきた。
「おはよう。みんな……ちょっとヤバいかもしれない」
彼はスマホを見せた。夜の間に届いていた匿名のメール。差出人は不明。だが、そこに添付された画像に、理紗は凍りついた。
それは、前日の祠を撮った写真だった。
だが、**“撮った覚えのない角度”**だった。
“誰かが祠の裏から見ている”ような視点。
その奥、祠の影に、人影のようなものが立っている。
それには、顔がなかった。
ただ、口のようなものだけが、裂けて、笑っていた。
「……こんな写真、撮ってないよな……?」
空良の声が震えていた。
夏音がぽつりと呟く。
「……ねえ、あたし、この感じ、知ってる。“憑き初め”ってやつかも」
「憑き……?」
「うん。記録にも記憶にもないのに、現象だけが“前提”みたいに進んでいく。相手はまだ、こっちに“全体”を見せてない。でも、“近づいてる”。そういうときに起きる、霊的接触の“第一段階”。」
理紗の背筋に、冷たいものが走った。
あの祠は、壊される寸前だった。
だが、“壊される前に”、**祟りは“出てきてしまった”**のだ。
そして――“名前を探している”。
誰かを、「代わりにする」ために。