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第9話

 その夜。理紗は、夢の中で“名前を呼ばれていた”。

 はっきりとは聞こえない。

 けれど、誰かが――何かが――確かに「呼んでいる」。

 ──リ……

 ──……サ……

 目を覚ますと、額にうっすらと汗をかいていた。隣のベッドで寝ているはずの桐子の布団が乱れている。

「……トイレ?」

 そう思ってカーテンを少し開けると、外の道に立っている影が見えた。

 白い服。長い髪。顔は、窓の角度では見えない。

「桐子……? なんで、外に?」

 理紗はそっと部屋を抜け出し、宿の玄関を出た。

 だがそこに、桐子の姿はなかった。

「あれ……?」

 辺りは静まり返っている。外灯の光に照らされているはずの道路も、なぜか数メートル先で途切れたように“闇に沈んで”いる。

 理紗は慎重に歩を進めた。

 足元にざらついた砂利の感触。草のにおい。遠くでフクロウが鳴いたような音――

「…………っ!」

 暗闇の中から、**「裂ける音」**が響いた。

 布が引き裂かれるような、肉が裂けるような音。

 理紗は咄嗟に後ずさり、民宿の玄関に駆け戻る。扉を閉めた瞬間――何かが外から“押し返してくる”感覚があった。

 誰かが、扉の向こうに“いる”。

 ……でも、ノックはしない。

 ただ、“じっと見ている”。

 理紗は震えながら、鍵をかけ、息を潜めた。

 翌朝、桐子は普通に戻っていた。

 まるで、何事もなかったかのように。

「昨日? あたし、ずっと寝てたよ? 外なんか行ってないけど?」

 理紗は、それ以上は言えなかった。

 だが――桐子の目が、昨日と“違っていた”。

 いつもなら穏やかで、笑いながら「記録魔なの」と言ってメモを取るその姿勢が、どこか、ぎこちない。

「桐子……昨日、どんな夢見た?」

 理紗がさりげなく聞くと、桐子は少しだけ考えてから言った。

「……なんか、“誰かに呼ばれてた”夢。遠くから……こう、名前を繰り返されるような……」

 理紗の心が跳ねた。

「それって……“澪”って呼ばれなかった?」

 桐子は一瞬だけ止まって、首を横に振った。

「ううん。“私の名前”を呼んでたよ。……でも、変だった。私自身が、“自分の名前じゃない”って、感じてた気がする」

「……名前じゃない名前……?」

 そこへ慶悟がやってきた。

「おはよう。みんな……ちょっとヤバいかもしれない」

 彼はスマホを見せた。夜の間に届いていた匿名のメール。差出人は不明。だが、そこに添付された画像に、理紗は凍りついた。

 それは、前日の祠を撮った写真だった。

 だが、**“撮った覚えのない角度”**だった。

“誰かが祠の裏から見ている”ような視点。

 その奥、祠の影に、人影のようなものが立っている。

 それには、顔がなかった。

 ただ、口のようなものだけが、裂けて、笑っていた。

「……こんな写真、撮ってないよな……?」

 空良の声が震えていた。

 夏音がぽつりと呟く。

「……ねえ、あたし、この感じ、知ってる。“憑き初め”ってやつかも」

「憑き……?」

「うん。記録にも記憶にもないのに、現象だけが“前提”みたいに進んでいく。相手はまだ、こっちに“全体”を見せてない。でも、“近づいてる”。そういうときに起きる、霊的接触の“第一段階”。」

 理紗の背筋に、冷たいものが走った。

 あの祠は、壊される寸前だった。

 だが、“壊される前に”、**祟りは“出てきてしまった”**のだ。

 そして――“名前を探している”。

 誰かを、「代わりにする」ために。


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