目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第10話

 調査三日目の朝、教授が村に合流した。

「ようやく着きました。みなさん、お疲れのようですね」

 大学から派遣された民俗学教授・水原康信は、痩身で神経質そうな風貌だった。眼鏡を直しながら、空良の持つ写真を見て言った。

「これは……“ナオ”ですね」

 その言葉に、場の空気が一変した。

「ナオ、って……?」

 理紗が声を潜めて問うと、水原は平然と答えた。

「“顔のない女”。この地域に特有の土着信仰で、明治期以前の文献や口伝にだけ現れます。“名前を奪われた者”であり、“名前を求め続ける存在”……そう記されています」

「……教授、それって……本物だと?」

「少なくとも、“この村では信じられていた”というのは確かです」

 水原は続けた。

「この祠、正確な由来はわかっていません。ただ、ある記録にはこうある。“ある娘が、村の記憶を喰い尽くし、封じられた”。それが“澪”――またの名を“ナオ”とする、と」

 理紗の顔が強張った。

「澪……。桐子が、夢で呼ばれた名前……」

「えっ、それマジ?」

 空良が声を上げたが、桐子は首を横に振った。

「……違う。“私は”澪なんか知らない。でも、なんとなく――“その名前を知っていた”ような気がしたの」

 その時だった。

 民宿の玄関が、**コン、コン……**と静かに叩かれた。

 皆が顔を見合わせる。

「誰か来たのか?」

 慶悟がそっと覗くと、そこにいたのは――昨日、山道で出会った“老婆”だった。

「……あの祠は、まだ“壊れてはいない”」

 老婆は静かに言った。

「だが、“名が揺らいだ”。それは、“封がほどけた”ということ。“名前”は、“記憶”に寄生する。……だから、名を知る者が“代わり”にされる」

 老婆は、視線を桐子へ向けた。

「おまえ、“澪”と呼ばれたな?」

「……呼ばれた……気が、する。でも、私の名前は……」

「もう、ずれてきておる。おまえの“輪郭”が、“澪”に引きずられておる。“祀られる前に”、おまえが“思い出しきる”か、あるいは“忘れきる”か――どちらかじゃ」

 水原が老婆に近づき、静かに尋ねた。

「“ナオ”を封じる方法は、本当にあるんですか?」

 老婆は目を細めた。

「ある。だが、条件が一つある。“名前を与えた者”が、名を“回収”せねばならぬ。でなければ、“澪”は新しい名前を得て、次の祠に宿る」

「次の祠……?」

「“人の記憶”じゃ。誰かがその名を覚えていれば、祠はどこにでも生まれる。“街の隅”にも、“マンションの一室”にもな……」

 その言葉に、空気が凍る。

 老婆は、最後にこう言った。

「思い出すな。“あの名前”を。……思い出しかけたなら、“自分の名”を何度も唱えるんじゃ。でなければ……次は、おまえが“祠”になる」

 そう言って、老婆は去っていった。

 だがその場に残された者の中で、“桐子”だけが――ふと、自分の指先に気づいた。

 人差し指の皮が、いつの間にか剥がれている。

 その下に浮かび上がった線が、まるで文字のように見えた。

 ──澪

「……どうして、私の手に“この字”が……?」

 誰かが答えたわけではなかった。

 だが彼女の背後に、誰かが立っている気配がした。

“呼ばれた者”は、もう祠の中ではなく、“隣”にいた。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?