調査三日目の朝、教授が村に合流した。
「ようやく着きました。みなさん、お疲れのようですね」
大学から派遣された民俗学教授・水原康信は、痩身で神経質そうな風貌だった。眼鏡を直しながら、空良の持つ写真を見て言った。
「これは……“ナオ”ですね」
その言葉に、場の空気が一変した。
「ナオ、って……?」
理紗が声を潜めて問うと、水原は平然と答えた。
「“顔のない女”。この地域に特有の土着信仰で、明治期以前の文献や口伝にだけ現れます。“名前を奪われた者”であり、“名前を求め続ける存在”……そう記されています」
「……教授、それって……本物だと?」
「少なくとも、“この村では信じられていた”というのは確かです」
水原は続けた。
「この祠、正確な由来はわかっていません。ただ、ある記録にはこうある。“ある娘が、村の記憶を喰い尽くし、封じられた”。それが“澪”――またの名を“ナオ”とする、と」
理紗の顔が強張った。
「澪……。桐子が、夢で呼ばれた名前……」
「えっ、それマジ?」
空良が声を上げたが、桐子は首を横に振った。
「……違う。“私は”澪なんか知らない。でも、なんとなく――“その名前を知っていた”ような気がしたの」
その時だった。
民宿の玄関が、**コン、コン……**と静かに叩かれた。
皆が顔を見合わせる。
「誰か来たのか?」
慶悟がそっと覗くと、そこにいたのは――昨日、山道で出会った“老婆”だった。
「……あの祠は、まだ“壊れてはいない”」
老婆は静かに言った。
「だが、“名が揺らいだ”。それは、“封がほどけた”ということ。“名前”は、“記憶”に寄生する。……だから、名を知る者が“代わり”にされる」
老婆は、視線を桐子へ向けた。
「おまえ、“澪”と呼ばれたな?」
「……呼ばれた……気が、する。でも、私の名前は……」
「もう、ずれてきておる。おまえの“輪郭”が、“澪”に引きずられておる。“祀られる前に”、おまえが“思い出しきる”か、あるいは“忘れきる”か――どちらかじゃ」
水原が老婆に近づき、静かに尋ねた。
「“ナオ”を封じる方法は、本当にあるんですか?」
老婆は目を細めた。
「ある。だが、条件が一つある。“名前を与えた者”が、名を“回収”せねばならぬ。でなければ、“澪”は新しい名前を得て、次の祠に宿る」
「次の祠……?」
「“人の記憶”じゃ。誰かがその名を覚えていれば、祠はどこにでも生まれる。“街の隅”にも、“マンションの一室”にもな……」
その言葉に、空気が凍る。
老婆は、最後にこう言った。
「思い出すな。“あの名前”を。……思い出しかけたなら、“自分の名”を何度も唱えるんじゃ。でなければ……次は、おまえが“祠”になる」
そう言って、老婆は去っていった。
だがその場に残された者の中で、“桐子”だけが――ふと、自分の指先に気づいた。
人差し指の皮が、いつの間にか剥がれている。
その下に浮かび上がった線が、まるで文字のように見えた。
──澪
「……どうして、私の手に“この字”が……?」
誰かが答えたわけではなかった。
だが彼女の背後に、誰かが立っている気配がした。
“呼ばれた者”は、もう祠の中ではなく、“隣”にいた。