桐子の手に浮かび上がった「澪」の文字は、午前中のうちに消えた。
しかし、それで終わったわけではなかった。
むしろ、“それ”は、次の段階へ進んでいた。
午後、調査班は再び祠の元へと向かった。村の開発業者が重機の位置をずらし始めていたが、現場には妙な静寂が漂っていた。
「……祠、ちょっと、形が変わってない?」
夏音が小さく言った。
よく見ると、屋根の角度がわずかに下がり、注連縄が“新しく巻き直されていた”。
「誰が、触った……?」
理紗の問いに、工事責任者の男は首を振った。
「うちはまだ何もいじってないっすよ。あんなとこ、朝にはすでに立入禁止エリアになってましたし……」
「じゃあ、誰が?」
水原教授が険しい表情で祠の前へ出る。
すると、柱の根元に、見覚えのある紙が一枚、貼られていた。
墨でこう書かれている。
──名を呼ぶな
──名を渡すな
──名を継がせるな
「……警告、か」
慶悟が呟いた時、風が一瞬逆巻いた。
祠の奥、闇のような隙間から、“何か”が揺れている。
見てはならない。
だが、目が吸い込まれていく。
「……“祠の形が変わった”って、昔もあったんだよ」
ふいに桐子が言った。
皆が振り向くと、彼女は祠の前に立っていた。表情は無。目の奥が虚ろだった。
「明治のころ、一度だけ。災厄が村を覆ったとき、“祠が新しくなっていた”って記録が残ってる。……あれ、私、いつ読んだんだっけ?」
「桐子、下がって! そこに立たないで!」
理紗が叫ぶと、桐子ははっとしたように立ち止まった。
「……ごめん。なんか、“誰かの記憶”が、私の中に流れてくるの」
桐子は自分の胸を押さえながら言った。
「“私が祀った”って……“私が名を与えた”って……。そんな記憶が、私の中で脈打ってる……!」
「じゃあやっぱり、お前が“ナオ”の――!」
空良の叫びが遮られた。
祠の奥から、風鈴の音が、一度だけ響いた。
キィ……ン……。
その音が鳴った瞬間、桐子の体がふらりと揺れる。
「っ……やめろ……わたしの名前は……か、桐……子……!」
必死に名を唱える彼女の肩を、慶悟が抱き止めた。
「思い出すな……! お前は桐子だ! “澪”なんかじゃない!」
だが桐子の口から洩れる言葉は、もう違っていた。
「……ミオ、って……呼ばれて……た……気が……」
その時、背後の祠が、音を立てて**“笑った”**。
誰かがいた。
祠の奥で、確かに“何か”が、笑っていた。
水原教授が震える声で言った。
「……“名を与えた者”じゃない。“名を思い出した者”が、“祠になる”……!」
その法則に気づいた瞬間、理紗の脳裏に、何かが閃いた。
「じゃあ、澪の名を“誰かが回収”すれば……“澪になる”必要はないってことじゃない!?」
「回収って、どうやって!?」
「“記憶の所有者を塗り替える”。“誰かが、自分の名前として受け入れる”。それしかない」
「それって……おい……つまり、“誰かが身代わりになれ”ってことかよ……!」
空良が叫んだ。
皆が黙る。
その時――
「……私がやる」
慶悟が、桐子の肩をそっと離し、静かに言った。
「もし、誰かが“澪”の名前を引き受けなきゃならないなら……俺がやる」
「待って、それって、何が起こるかわからないんだよ!?」
理紗が叫ぶ。
「わかってる。でも、桐子が“消える”のは違う。……あいつは、優しいから。誰かの代わりに“祠”になんて、させたくない」
その声に、桐子がはっと顔を上げた。
「……でも、私……」
「いいんだ。それより……ちゃんと“自分の名前”で、生きてくれ」
慶悟は、祠に歩み寄ると、震える声で言った。
「……俺の名前は、澪だ。今日から、俺が“その名”を引き受ける」
――その瞬間。
祠の奥から、“影”が立ち上がった。
顔のない、女のような、黒い塊。
それが――静かに、微笑んだように見えた。