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第11話

 桐子の手に浮かび上がった「澪」の文字は、午前中のうちに消えた。

 しかし、それで終わったわけではなかった。

 むしろ、“それ”は、次の段階へ進んでいた。

 午後、調査班は再び祠の元へと向かった。村の開発業者が重機の位置をずらし始めていたが、現場には妙な静寂が漂っていた。

「……祠、ちょっと、形が変わってない?」

 夏音が小さく言った。

 よく見ると、屋根の角度がわずかに下がり、注連縄が“新しく巻き直されていた”。

「誰が、触った……?」

 理紗の問いに、工事責任者の男は首を振った。

「うちはまだ何もいじってないっすよ。あんなとこ、朝にはすでに立入禁止エリアになってましたし……」

「じゃあ、誰が?」

 水原教授が険しい表情で祠の前へ出る。

 すると、柱の根元に、見覚えのある紙が一枚、貼られていた。

 墨でこう書かれている。

 ──名を呼ぶな

 ──名を渡すな

 ──名を継がせるな

「……警告、か」

 慶悟が呟いた時、風が一瞬逆巻いた。

 祠の奥、闇のような隙間から、“何か”が揺れている。

 見てはならない。

 だが、目が吸い込まれていく。

「……“祠の形が変わった”って、昔もあったんだよ」

 ふいに桐子が言った。

 皆が振り向くと、彼女は祠の前に立っていた。表情は無。目の奥が虚ろだった。

「明治のころ、一度だけ。災厄が村を覆ったとき、“祠が新しくなっていた”って記録が残ってる。……あれ、私、いつ読んだんだっけ?」

「桐子、下がって! そこに立たないで!」

 理紗が叫ぶと、桐子ははっとしたように立ち止まった。

「……ごめん。なんか、“誰かの記憶”が、私の中に流れてくるの」

 桐子は自分の胸を押さえながら言った。

「“私が祀った”って……“私が名を与えた”って……。そんな記憶が、私の中で脈打ってる……!」

「じゃあやっぱり、お前が“ナオ”の――!」

 空良の叫びが遮られた。

 祠の奥から、風鈴の音が、一度だけ響いた。

 キィ……ン……。

 その音が鳴った瞬間、桐子の体がふらりと揺れる。

「っ……やめろ……わたしの名前は……か、桐……子……!」

 必死に名を唱える彼女の肩を、慶悟が抱き止めた。

「思い出すな……! お前は桐子だ! “澪”なんかじゃない!」

 だが桐子の口から洩れる言葉は、もう違っていた。

「……ミオ、って……呼ばれて……た……気が……」

 その時、背後の祠が、音を立てて**“笑った”**。

 誰かがいた。

 祠の奥で、確かに“何か”が、笑っていた。

 水原教授が震える声で言った。

「……“名を与えた者”じゃない。“名を思い出した者”が、“祠になる”……!」

 その法則に気づいた瞬間、理紗の脳裏に、何かが閃いた。

「じゃあ、澪の名を“誰かが回収”すれば……“澪になる”必要はないってことじゃない!?」

「回収って、どうやって!?」

「“記憶の所有者を塗り替える”。“誰かが、自分の名前として受け入れる”。それしかない」

「それって……おい……つまり、“誰かが身代わりになれ”ってことかよ……!」

 空良が叫んだ。

 皆が黙る。

 その時――

「……私がやる」

 慶悟が、桐子の肩をそっと離し、静かに言った。

「もし、誰かが“澪”の名前を引き受けなきゃならないなら……俺がやる」

「待って、それって、何が起こるかわからないんだよ!?」

 理紗が叫ぶ。

「わかってる。でも、桐子が“消える”のは違う。……あいつは、優しいから。誰かの代わりに“祠”になんて、させたくない」

 その声に、桐子がはっと顔を上げた。

「……でも、私……」

「いいんだ。それより……ちゃんと“自分の名前”で、生きてくれ」

 慶悟は、祠に歩み寄ると、震える声で言った。

「……俺の名前は、澪だ。今日から、俺が“その名”を引き受ける」

 ――その瞬間。

 祠の奥から、“影”が立ち上がった。

 顔のない、女のような、黒い塊。

 それが――静かに、微笑んだように見えた。


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