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第12話

 祠の内部から立ち上がった黒い影は、ふわりと浮かび、地を這う霧のように慶悟にまとわりついた。

「……う、あ……」

 目を開いていながら、まぶたの奥を探られるような感覚。

 内側から、何かが“名の座標”を上書きしていく。

「澪。澪。澪。わたしのなまえは、澪」

 そんな声が、慶悟の頭の中にこだまする。

「慶悟! 戻って!!」

 理紗の声も届かない。影は祠の周囲に張られた縄をすり抜け、ただ、慶悟にまとわりついていた。

 夏音が顔を伏せた。

「ダメ。これ、もう“交換”が始まってる。“名と身体”が合わさると、止まらない……!」

「どうすればいい!?」

「“戻す”しかない。澪の名前を、“記憶”に戻せばいい。“名を思い出した者”じゃなく、“名を語り継ぐ者”に……!」

 水原教授が思い出したように呟いた。

「――“祠の記憶は、語られたときに封じられる”。……昔の伝承にそうある」

「つまり……“話す”ってこと?」

「そうだ。“澪”という存在を、ただの怪異ではなく、“物語”として語り直す。それで、“祟り”は“記憶”に封じ込められる」

 理紗が祠に向かって叫んだ。

「私が話す! 私が“語り部”になる!」

 そう言うと、理紗は震える声で言葉を紡ぎ始めた。

「澪は……忘れられた者だった。

 名前を持たず、祀られ、封じられ……けれど、誰かの中にずっといた。

 それは、誰かの“記憶”であり、

 誰かの“痛み”だった。

 ――忘れられた女は、いま語られることで、名前を取り戻す。

 名を、祠に返す!」

 その瞬間。

 祠が、ぱん、と音を立ててはぜた。

 中から立ち上る黒い影が、パアッと光に変わり、空へと溶けていく。

「――慶悟ッ!!」

 理紗が駆け寄ったとき、慶悟は地面に膝をついていた。

 だが、目は開いている。意識は……ある。

「……俺……名前……なんだっけ……」

「慶悟。あなたは“慶悟”。“澪”じゃない」

 その言葉に、慶悟の目に焦点が戻った。

「……そうだ。俺は……俺だ」

 その時、祠の奥で、もう一度だけ風鈴が鳴った。

 キィ……ン……。

 澪という名は、再び“祠の中”へと戻された。

 それはもう“人を呪う祟り”ではなく、語られる“記憶”となった。

 ■

 翌日、村の開発は中止された。

 重機の一部が勝手に動いたという報告や、作業員が原因不明の高熱で倒れたという話もあったが、村役場の方で“土地保全区域”として保護されることになった。

「“名前がある”って、すごいことなんだね」

 桐子が、祠の前でぽつりと言った。

「うん。忘れられないってことだからね」

 理紗も答える。

 祠の前には、新しい木札が立てられていた。

 ──祠名:澪社(れいしゃ)

 ──語り継ぐ者のために

 ──口にするたび、名は還る

 その木札を見ながら、慶悟は静かに微笑んだ。

「俺の中にも、少し“澪”が残ってる気がするよ」

「それでいい。“名を継ぐ”って、そういうことだから」

 祟りは終わった。

 けれど、“記憶”は残った。

 そしてそれは、新たな祠となり、

 語られるたびに、名を封じ、

 忘れ去られた者を救う――小さな祈りの形となった。


(完)


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