祠の内部から立ち上がった黒い影は、ふわりと浮かび、地を這う霧のように慶悟にまとわりついた。
「……う、あ……」
目を開いていながら、まぶたの奥を探られるような感覚。
内側から、何かが“名の座標”を上書きしていく。
「澪。澪。澪。わたしのなまえは、澪」
そんな声が、慶悟の頭の中にこだまする。
「慶悟! 戻って!!」
理紗の声も届かない。影は祠の周囲に張られた縄をすり抜け、ただ、慶悟にまとわりついていた。
夏音が顔を伏せた。
「ダメ。これ、もう“交換”が始まってる。“名と身体”が合わさると、止まらない……!」
「どうすればいい!?」
「“戻す”しかない。澪の名前を、“記憶”に戻せばいい。“名を思い出した者”じゃなく、“名を語り継ぐ者”に……!」
水原教授が思い出したように呟いた。
「――“祠の記憶は、語られたときに封じられる”。……昔の伝承にそうある」
「つまり……“話す”ってこと?」
「そうだ。“澪”という存在を、ただの怪異ではなく、“物語”として語り直す。それで、“祟り”は“記憶”に封じ込められる」
理紗が祠に向かって叫んだ。
「私が話す! 私が“語り部”になる!」
そう言うと、理紗は震える声で言葉を紡ぎ始めた。
「澪は……忘れられた者だった。
名前を持たず、祀られ、封じられ……けれど、誰かの中にずっといた。
それは、誰かの“記憶”であり、
誰かの“痛み”だった。
――忘れられた女は、いま語られることで、名前を取り戻す。
名を、祠に返す!」
その瞬間。
祠が、ぱん、と音を立ててはぜた。
中から立ち上る黒い影が、パアッと光に変わり、空へと溶けていく。
「――慶悟ッ!!」
理紗が駆け寄ったとき、慶悟は地面に膝をついていた。
だが、目は開いている。意識は……ある。
「……俺……名前……なんだっけ……」
「慶悟。あなたは“慶悟”。“澪”じゃない」
その言葉に、慶悟の目に焦点が戻った。
「……そうだ。俺は……俺だ」
その時、祠の奥で、もう一度だけ風鈴が鳴った。
キィ……ン……。
澪という名は、再び“祠の中”へと戻された。
それはもう“人を呪う祟り”ではなく、語られる“記憶”となった。
■
翌日、村の開発は中止された。
重機の一部が勝手に動いたという報告や、作業員が原因不明の高熱で倒れたという話もあったが、村役場の方で“土地保全区域”として保護されることになった。
「“名前がある”って、すごいことなんだね」
桐子が、祠の前でぽつりと言った。
「うん。忘れられないってことだからね」
理紗も答える。
祠の前には、新しい木札が立てられていた。
──祠名:澪社(れいしゃ)
──語り継ぐ者のために
──口にするたび、名は還る
その木札を見ながら、慶悟は静かに微笑んだ。
「俺の中にも、少し“澪”が残ってる気がするよ」
「それでいい。“名を継ぐ”って、そういうことだから」
祟りは終わった。
けれど、“記憶”は残った。
そしてそれは、新たな祠となり、
語られるたびに、名を封じ、
忘れ去られた者を救う――小さな祈りの形となった。
(完)