その夜、るりは悪夢を見た。
自分が祠の中に立っている。
天井は低く、壁は黒く煤けていた。
足元には、“濡れた草履”が三足、無造作に転がっている。
奥から、誰かが名を呼んでいる。
──るり
──わたしを わすれたのか
──わたしを はじめに おさめたのは おまえたちだろう
「……ちがう。私は、そんなこと――」
夢の中のるりが否定した瞬間、壁の奥に“口”が開いた。
人間の顔ではない。
ただそこにある、“口のかたち”だけのものが、笑った。
──じゃあ、だれが
──わたしを ここに いれたのか
目を覚ますと、寝汗をかいていた。
時計は深夜二時を指している。
カーテンの隙間から風が吹き込んでいた。
外には木々がざわめいているだけ。
けれどその音の中に、微かに混じっていた。
……チリン……
まさか、と思いベランダに出る。
音は止んでいた。
だが、自室の机の上に置かれていたはずの風鈴が――揺れていた。
風もない。人もいない。
なのに、“何かに反応していた”。
翌朝、るりは晃に連絡を取った。
晃は今回の祠の撤去計画に携わっていた役場の若手職員で、学生時代の同期でもある。
「祠に何があったか、現場にいた人、全員何も話したがらない。
“見てない”とか“覚えてない”とか。
でも俺、一人だけ覚えてる人に会ったんだよ」
晃は写真を一枚見せた。
それは、撤去前日の祠を真上から撮影したもの。
何の変哲もない屋根の上に、
墨で書かれた大きな文字があった。
──オモイダサナイデ
「現場の誰も、これに気づいてなかった。
いや、写真を見せても“何も書かれていない”って言うんだ」
「じゃあ、記録じゃなくて、“記憶”の方に作用してる?」
「たぶん。“見た人間”の中に、“何か”が入った。
でも、その人たちは“記憶を保持できない”ようになってる。
だから、“喪失するようにされてる”」
るりは、ぞっとした。
「じゃあ私の夢は、“見ることを許された側”の記憶かも……」
その時、晃のスマホが震えた。
差出人は不明。だが、表示されたメッセージは一文だけ。
──きのう あなたが みたのは ほんとうのわたしではありません。
晃は青ざめた。
「……これ、誰の番号だ?」
「番号じゃない。“記憶の送り主”だよ」
るりの声が、いつになく冷たかった。
そしてその瞬間、机の上に置いていた祠の見取り図が勝手にめくられた。
その裏面に、墨で書かれた文字があった。
──次に忘れるのは、あなた