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第20話

 翌日、るりは再び水居村の旧文書庫を訪れた。

 玄関は開いていた。鍵はかかっておらず、誰かが先に入ったような気配。

 嫌な胸騒ぎを覚えながら、るりはそっと靴を脱いで中に入る。

 畳の上に、紅葉が正座していた。

 彼女は静かに振り返った。

「……“何もなかった”って、よく言うよね」

「……え?」

「でも、“何もなかった”のに、どうして毎年、供物を捧げてたの?

 どうして代々、祠を見守る当番がいたの?

 どうして、“破ってはいけない日”が決められてたの?」

 るりは言葉を失った。

 紅葉は、机の上の古文書をめくりながら呟く。

「うちの先祖ね、“忘れた人から死ぬ”って言ってた。

 でも、それは比喩じゃなくて、“本当に忘れた瞬間に命が消える”って意味だったんだと思う」

「記憶と存在が直結してるってこと……?」

 紅葉は小さく頷いた。

「だから祠の中身は、“何か”じゃなくて、“誰か”だったの。

 しかも、“忘れられ続けた誰か”」

「それって……“死んでない”ってこと?」

「“祠の中”でずっと生きてた。“思い出されない”という形で、ね。

 でも壊されたから、“思い出された”。

 そして……いま、“思い出そうとした人”に入り込んでいってる」

「……晃」

 るりは急いでスマホを取り出し、晃に電話をかけた。

 ――応答なし。

 ――次に表示されたのは、彼からの不在着信と、音声メモだった。

 震える手でそれを再生する。

《……さっき、見たんだ。自分が祠に入っていく夢。

 俺じゃないはずなのに、俺の目線で、真っ暗な中に立ってる。

 その奥に、誰かが立ってて……》

 雑音。

《……声がする。“お前の名を思い出したから、お前の名を忘れる”って。

 意味がわからない。でも、それが“契約”だって、はっきり言われた。

 俺の名前が……もう、俺のじゃなくなりかけてる……》

 音声はそこで途切れた。

 るりは一瞬、世界がぐらりと傾くのを感じた。

 誰かの名を、思い出した。

 でも同時に、自分の名前が曖昧になっていく。

 机の上の資料が、一斉に風もなくめくれ出す。

 その裏には、手書きの文字が並んでいた。

 ──榊るり

 ──水居晃

 ──久賀真也

 ──水居紅葉

 ──(   )

 空白。

 最後の名前が抜け落ちている。

 そしてその下に、もう一行だけ。

 ──次に“名を失う”のは、お前。


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