翌日、るりは再び水居村の旧文書庫を訪れた。
玄関は開いていた。鍵はかかっておらず、誰かが先に入ったような気配。
嫌な胸騒ぎを覚えながら、るりはそっと靴を脱いで中に入る。
畳の上に、紅葉が正座していた。
彼女は静かに振り返った。
「……“何もなかった”って、よく言うよね」
「……え?」
「でも、“何もなかった”のに、どうして毎年、供物を捧げてたの?
どうして代々、祠を見守る当番がいたの?
どうして、“破ってはいけない日”が決められてたの?」
るりは言葉を失った。
紅葉は、机の上の古文書をめくりながら呟く。
「うちの先祖ね、“忘れた人から死ぬ”って言ってた。
でも、それは比喩じゃなくて、“本当に忘れた瞬間に命が消える”って意味だったんだと思う」
「記憶と存在が直結してるってこと……?」
紅葉は小さく頷いた。
「だから祠の中身は、“何か”じゃなくて、“誰か”だったの。
しかも、“忘れられ続けた誰か”」
「それって……“死んでない”ってこと?」
「“祠の中”でずっと生きてた。“思い出されない”という形で、ね。
でも壊されたから、“思い出された”。
そして……いま、“思い出そうとした人”に入り込んでいってる」
「……晃」
るりは急いでスマホを取り出し、晃に電話をかけた。
――応答なし。
――次に表示されたのは、彼からの不在着信と、音声メモだった。
震える手でそれを再生する。
《……さっき、見たんだ。自分が祠に入っていく夢。
俺じゃないはずなのに、俺の目線で、真っ暗な中に立ってる。
その奥に、誰かが立ってて……》
雑音。
《……声がする。“お前の名を思い出したから、お前の名を忘れる”って。
意味がわからない。でも、それが“契約”だって、はっきり言われた。
俺の名前が……もう、俺のじゃなくなりかけてる……》
音声はそこで途切れた。
るりは一瞬、世界がぐらりと傾くのを感じた。
誰かの名を、思い出した。
でも同時に、自分の名前が曖昧になっていく。
机の上の資料が、一斉に風もなくめくれ出す。
その裏には、手書きの文字が並んでいた。
──榊るり
──水居晃
──久賀真也
──水居紅葉
──( )
空白。
最後の名前が抜け落ちている。
そしてその下に、もう一行だけ。
──次に“名を失う”のは、お前。