夜。るりはホテルの洗面所で、自分の名前を何度も口にした。
「榊るり。……榊、るり……私は……私……」
鏡に映る自分の顔は、変わらないはずだった。
だが――
どこか“他人の顔”に見えた。
目元が違う。
頬の輪郭が、少し違う。
口元が笑っていないのに、鏡の中では笑っているように見える。
るりはタオルを掴み、鏡にかけた。
「……忘れるな。私は私。絶対に」
スマホに通知が入る。
未読のメッセージは、差出人不明のまま。
──オマエハダレ?
震えが走る。
晃のスマホも、もう繋がらない。
さっきまで確かに会話していた人間が、**“存在から消えていく”**感覚。
“名を失う”とは、こういうことか。
村の広報掲示板には、晃の名前が載っていなかった。
つい昨日まで役場職員として働いていたのに、どこにも記録がない。
“本当に最初からいなかった”ように。
祠に何もなかったのではない。
記録のすべてが祠の中に押し込まれていた。
そして、それが壊された今――
「“記録のない記憶”だけが、人を壊す」
誰かの声がした。
振り返ると、紅葉が部屋に入ってきていた。
彼女の表情は、変わらず無だった。
「私の母親、あんたのこと知ってたよ。
“榊るり”って名前、昔の戸籍にあるって」
「……どういう意味?」
「つまり、“あなたはかつて一度、消えた”ってこと」
るりの手が震えた。
「私が……祠に……?」
紅葉は頷いた。
「それも、祠に“誰かを入れる役目”として」
るりの頭に、ある光景が浮かんだ。
──黒い祠。
──名前を刻んだ木の札。
──誰かの名前を、“消している自分の手”。
「私……“名を消す係”だった?」
「そう。そして今は、“消される側”になってる」
「じゃあ、どうすればいいの!? もう、私は“消える”しかないの!?」
「違う。“封じなおせばいい”。でも今回は、“記憶を祠に戻す”んじゃなくて、“記憶ごと自分の中で受け止める”」
「……つまり、“全部思い出す”ってこと?」
「うん。“思い出して、なお生きてること”――それが、“封印の逆”。
“継ぐ者”じゃなく、“知る者”になること」
るりは、黙って立ち上がった。
「やる。……私は、“誰の名前を消したのか”を、知りたい」
風が吹いた。
その音は、部屋の外からではなかった。
るりの頭の中で、誰かが名を呟いた。
──しおり
──わたしの なまえを もどして
──あなたが はじめて けした なまえを
るりの手の甲に、墨の跡が浮かび上がる。
“栞”――かつて祠に封じた、少女の名前。
「……私が、“あなたを殺した”?」
紅葉が首を横に振る。
「違う。“思い出すことをやめた”。だから、“あなたを殺した”。」