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第21話

 夜。るりはホテルの洗面所で、自分の名前を何度も口にした。

「榊るり。……榊、るり……私は……私……」

 鏡に映る自分の顔は、変わらないはずだった。

 だが――

 どこか“他人の顔”に見えた。

 目元が違う。

 頬の輪郭が、少し違う。

 口元が笑っていないのに、鏡の中では笑っているように見える。

 るりはタオルを掴み、鏡にかけた。

「……忘れるな。私は私。絶対に」

 スマホに通知が入る。

 未読のメッセージは、差出人不明のまま。

 ──オマエハダレ?

 震えが走る。

 晃のスマホも、もう繋がらない。

 さっきまで確かに会話していた人間が、**“存在から消えていく”**感覚。

“名を失う”とは、こういうことか。

 村の広報掲示板には、晃の名前が載っていなかった。

 つい昨日まで役場職員として働いていたのに、どこにも記録がない。

“本当に最初からいなかった”ように。

 祠に何もなかったのではない。

 記録のすべてが祠の中に押し込まれていた。

 そして、それが壊された今――

「“記録のない記憶”だけが、人を壊す」

 誰かの声がした。

 振り返ると、紅葉が部屋に入ってきていた。

 彼女の表情は、変わらず無だった。

「私の母親、あんたのこと知ってたよ。

 “榊るり”って名前、昔の戸籍にあるって」

「……どういう意味?」

「つまり、“あなたはかつて一度、消えた”ってこと」

 るりの手が震えた。

「私が……祠に……?」

 紅葉は頷いた。

「それも、祠に“誰かを入れる役目”として」

 るりの頭に、ある光景が浮かんだ。

 ──黒い祠。

 ──名前を刻んだ木の札。

 ──誰かの名前を、“消している自分の手”。

「私……“名を消す係”だった?」

「そう。そして今は、“消される側”になってる」

「じゃあ、どうすればいいの!? もう、私は“消える”しかないの!?」

「違う。“封じなおせばいい”。でも今回は、“記憶を祠に戻す”んじゃなくて、“記憶ごと自分の中で受け止める”」

「……つまり、“全部思い出す”ってこと?」

「うん。“思い出して、なお生きてること”――それが、“封印の逆”。

 “継ぐ者”じゃなく、“知る者”になること」

 るりは、黙って立ち上がった。

「やる。……私は、“誰の名前を消したのか”を、知りたい」

 風が吹いた。

 その音は、部屋の外からではなかった。

 るりの頭の中で、誰かが名を呟いた。

 ──しおり

 ──わたしの なまえを もどして

 ──あなたが はじめて けした なまえを

 るりの手の甲に、墨の跡が浮かび上がる。

“栞”――かつて祠に封じた、少女の名前。

「……私が、“あなたを殺した”?」

 紅葉が首を横に振る。

「違う。“思い出すことをやめた”。だから、“あなたを殺した”。」


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