深夜、るりはもう一度、祠の跡地へ向かった。
そこには、今や何の建造物も残っていない。
木片も札も、跡形もなく消えていた。
なのに、風鈴の音だけが――まだ、そこにあった。
……チリン……
音がする方角を見て、るりは一歩、また一歩と歩を進める。
“名を戻す”には、思い出さなければならない。
自分が誰を忘れ、誰の名を消し、どこに封じたのか。
辺りに人の気配はない。
だが、土の上に、新しい足跡が一対残っていた。
小さな、女児のような裸足の足跡。
るりはそこに膝をつき、手を重ねた。
「……栞。……あなたのことを、思い出したよ」
その瞬間――
風が爆ぜるように吹き抜けた。
地面の下から、“記憶”が這い上がってくる。
それは音でも映像でもなく、感覚そのものだった。
雨の日、狭い蔵の中。
名前を呼ばれ、首を振る自分。
祠に向かって手を合わせる誰か。
そして――「この子は、名を持たぬままでよい」と囁いた、大人たちの声。
“この村に、名前を持って生まれてきてはいけない子がいた”――。
そう記された古文書のページが、るりの脳内でぱらぱらとめくられていく。
その子に名前を与えるということは、
“名を通して人として受け入れること”。
しかし、祟りとされたその子を、人として祀ることができなかった。
だから――
「私が、あなたの名を“消した”んだ……」
自分がまだ幼い頃、
村の風習として「口をつぐむ」よう教えられた少女の記憶。
“あの子のことは言ってはいけない”と。
“あの子の名前を出すと、みんな忘れてしまうから”と。
けれど、栞はずっと、祠の中で待っていた。
自分の名を、
自分の存在を、
誰かが“思い出してくれる”ことを。
「……戻すよ、私が。
あなたの名前を、あなたの存在を――この体の中に」
祠の跡地に、黒い影が立ち上がった。
影は幼い少女の姿をしていた。
だがその目は、子どものものではなかった。
言葉を超えた“記憶そのもの”のように、深く沈んでいた。
──おまえが わたしを けした
──なら おまえが わたしを のこせ
るりは頷いた。
「うん。祠じゃない。私が、あなたを“生かす場所”になる。
もう封じない。語る。忘れない。
私の名前と一緒に、あなたの名前も“持って生きる”」
そのとき、少女の影がふっと微笑んだ。
そして――地面の影に、静かに沈んでいった。
■
翌朝、るりは役場の窓口で、自らの戸籍変更を申請した。
申請書には、こう記されていた。
榊 栞るり
それは、封じるでも、祀るでもない。
**“二つの名を継いで生きる者”**としての、新たな祈りだった。
(完)