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第22話

 深夜、るりはもう一度、祠の跡地へ向かった。

 そこには、今や何の建造物も残っていない。

 木片も札も、跡形もなく消えていた。

 なのに、風鈴の音だけが――まだ、そこにあった。

 ……チリン……

 音がする方角を見て、るりは一歩、また一歩と歩を進める。

“名を戻す”には、思い出さなければならない。

 自分が誰を忘れ、誰の名を消し、どこに封じたのか。

 辺りに人の気配はない。

 だが、土の上に、新しい足跡が一対残っていた。

 小さな、女児のような裸足の足跡。

 るりはそこに膝をつき、手を重ねた。

「……栞。……あなたのことを、思い出したよ」

 その瞬間――

 風が爆ぜるように吹き抜けた。

 地面の下から、“記憶”が這い上がってくる。

 それは音でも映像でもなく、感覚そのものだった。

 雨の日、狭い蔵の中。

 名前を呼ばれ、首を振る自分。

 祠に向かって手を合わせる誰か。

 そして――「この子は、名を持たぬままでよい」と囁いた、大人たちの声。

“この村に、名前を持って生まれてきてはいけない子がいた”――。

 そう記された古文書のページが、るりの脳内でぱらぱらとめくられていく。

 その子に名前を与えるということは、

“名を通して人として受け入れること”。

 しかし、祟りとされたその子を、人として祀ることができなかった。

 だから――

「私が、あなたの名を“消した”んだ……」

 自分がまだ幼い頃、

 村の風習として「口をつぐむ」よう教えられた少女の記憶。

“あの子のことは言ってはいけない”と。

“あの子の名前を出すと、みんな忘れてしまうから”と。

 けれど、栞はずっと、祠の中で待っていた。

 自分の名を、

 自分の存在を、

 誰かが“思い出してくれる”ことを。

「……戻すよ、私が。

 あなたの名前を、あなたの存在を――この体の中に」

 祠の跡地に、黒い影が立ち上がった。

 影は幼い少女の姿をしていた。

 だがその目は、子どものものではなかった。

 言葉を超えた“記憶そのもの”のように、深く沈んでいた。

 ──おまえが わたしを けした

 ──なら おまえが わたしを のこせ

 るりは頷いた。

「うん。祠じゃない。私が、あなたを“生かす場所”になる。

 もう封じない。語る。忘れない。

 私の名前と一緒に、あなたの名前も“持って生きる”」

 そのとき、少女の影がふっと微笑んだ。

 そして――地面の影に、静かに沈んでいった。

 ■

 翌朝、るりは役場の窓口で、自らの戸籍変更を申請した。

 申請書には、こう記されていた。

 榊 栞るり

 それは、封じるでも、祀るでもない。

 **“二つの名を継いで生きる者”**としての、新たな祈りだった。


(完)


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