「この祠を壊したら、“うつしよ”が出てくる」
そう言ったのは、伽羅朔だった。
深夜二時の山奥、ライトに照らされた小さな社。
古びた注連縄、石段の苔、誰も足を踏み入れたことがないような気配。
志乃は、その中に佇んでいた。
「……“うつしよ”って、あんたが言ってるのはつまり……?」
「“この世の裏にある世界”。仏教で言えば“裏世界”、神道で言えば“カゲヨ”。
でもここでは“うつしよ”と呼ばれてる。“写し世”。
言い換えれば、“今のこの世界の、写し損ね”だ」
「……幽霊ってこと?」
「もっとタチが悪いよ。“存在として未完成”なのに、“思念だけはこっち側に来ようとする”」
漣が、静かに伽羅に被せるように言った。
「でも、それが祠に封じられてるとしたら? 俺たちが“そいつを開ける”ってことは、扉を壊すってことだ」
「そう。だから今日はその“鍵”を持ってきた」
伽羅は懐から、木札を取り出した。
墨で書かれた、ひとつの“名前”。
「……これは、何?」
「“写された名”。封じられていた“もの”が、かつて一度だけ人間として呼ばれかけたときの“原初の名”。
これを読み上げたら、祠の封印は解ける」
「なぜ、それをお前が?」
「……あのとき、夢で見たんだ。“誰かが俺に渡した”。そして、俺は約束した。“戻す”って」
漣が、わずかに首を横に振る。
「それが“罠”かもしれないのに?」
志乃は、そっと祠の戸に手をかける。
「でも、それを確かめに来たんでしょ? “祠の中身が本物かどうか”を」
その瞬間、祠の中から風が吹いた。
夜の森で、風は音を伴う。
木々を揺らし、草を震わせる――
けれど、この風は違った。
風だけが、祠の内から“吹き出して”いた。
「……開いた?」
伽羅が声を潜めたとき、風の中から、声がした。
──ワタシヲ ミタノハ ハジメテネ
──ナマエヲ ヨブノハ アナタ?
志乃の耳元で、その声が囁いた。
そして、木札の墨が、自らの力で浮かび上がるように揺らめき始めた。