木札に書かれていた名前が、墨の中から浮かび上がっていく。
「……読んでいいのか?」
伽羅の声に、志乃は目を伏せた。
漣が一歩、前に出た。
「名前は“開ける呪い”にもなる。“封じるまじない”にもなる。
そのどちらになるかは、“呼ぶ側の意志”次第だ」
伽羅は戸惑いながらも、震える声でその名を口にした。
「……“ナオミ”」
その瞬間、祠の中から熱を持った風が吹き出した。
地面が震え、祠の屋根に張られていた注連縄が、ブツンッと切れる。
志乃の体に鳥肌が走った。
“何かがこちらを見ている”
だが、それは“視線”ではない。
名前を呼ばれたことに反応する、“思念そのもの”だった。
──ナオミ。
──ナオミ。
──わたしの なまえは ナオミ?
──それでいいの?
──ほんとうに?
次の瞬間。
祠の中から、人影のようなものが出てきた。
髪は長く、顔はない。
いや、“顔が見えない”のではなく、“顔という概念がそこにない”。
それは、“人の形”をした“空洞”だった。
「うわ……あれ……“うつしよ”そのもの……!」
伽羅が後ずさる。
だが、影はゆっくりと志乃の方へ向かってきた。
影はしゃがみこみ、彼女の目の前で首をかしげた。
──あなたが わたしを よんだの?
──あなたが わたしに “ナ”をつけたの?
──それとも “オ”を?
──それとも “ミ”?
志乃は言葉を失う。
“名を与える”とは、“命を与える”ということ。
だが今、自分たちはそれを不完全な存在に対して行ってしまったのだ。
その瞬間、影の輪郭が急にぶれる。
声が変質する。
“音”ではなく、“文字列”が直接、脳に貼りつく。
──ナオミ。
──ナオリ。
──ナグリ。
──ナイモノ。
──ナイノニ。
──ナイハズノ。
──ナクシタノ。
「……わかる?」
漣が、震える声で言った。
「あいつ、自分の“名前を確定できない”んだ。
ナオミって言った瞬間から、“それ以外の可能性”が暴れ出してる」
志乃の足元に、“墨のような影”が滲み出す。
まるで祠の内部が、現実の地面を侵食しているかのように――。
「やばい、祠の結界、完全に壊れた」
伽羅が叫ぶ。
しかし、誰も動けない。
“ナオミ”と呼ばれたものが、志乃の目の前で、微笑んだような気がした。
だが――
その“笑顔の形”が、完全に“人間のものではなかった”。