千紗が補佐官としての地位を固めつつある中、宮廷内では彼女の名前が頻繁に話題に上るようになっていた。特に、貴族たちの間で千紗を「若き有能な補佐官」と評する声が増え、陰口を叩いていた者たちでさえ、彼女の働きぶりを認めざるを得なくなっていた。しかし、そんな状況をどこか楽しんでいる人物が一人――皇帝セイラスである。
---
セイラスの皮肉交じりの提案
ある日、千紗はセイラスの執務室に呼び出された。これまでの経験から、こういった呼び出しの後にはろくでもない話が待っていることを察していたため、彼女の足取りは重かった。
「また何か面倒な仕事を押し付けられるんだろうな……。」千紗は小さく溜息をつきながら執務室の扉を叩いた。
「お入り。」セイラスの声が聞こえ、千紗は覚悟を決めて中に入った。
セイラスは執務机の後ろに座り、書類に目を通していたが、千紗が入室すると手を止めて微笑んだ。その笑みには、千紗が最も苦手とする「厄介ごとを持ち込む予兆」が漂っていた。
「千紗、そなたの働きは見事だ。世としても感謝している。」
「ありがとうございます、陛下。」千紗は形式的に礼を述べたが、内心では警戒していた。「この褒め言葉の後には、絶対何かがある……。」
セイラスは彼女の反応を見て楽しんでいるようだった。そして、案の定、次の言葉で千紗の予感を的中させた。
「ところで、妃になるという選択肢について考えたことはあるか?」
その瞬間、千紗の思考が一瞬止まった。
「……は?」
セイラスは楽しげに続ける。「そなたほどの人物なら、妃として世を支えるのも悪くないだろう。そばにいてくれるなら、世としても安心だ。」
千紗は一拍置いて、深く息を吸った。「陛下、それは冗談ですよね?」
「いや、本気だ。」
彼の真顔に千紗は思わず頭を抱えた。そして、彼女の口から出たのは、皮肉たっぷりの返答だった。
「補佐官だけでも手一杯です。それ以上の面倒事はご遠慮します。」
セイラスは千紗の答えにクスリと笑い、「そなたらしい返答だな」と呟いた。
---
周囲の視線
この話が他の側室たちや貴族たちに知られるのは時間の問題だった。セイラスが妃の選定をまだ進めていないこともあり、千紗がその候補に挙げられるのは、宮廷内での格好の話題となった。
「千紗様、最近宮廷内で妙な噂が広まっています。」侍女のエリカが気を遣うように報告した。
「妙な噂?」千紗は眉をひそめた。
「陛下が千紗様を妃候補として考えているのではないか、というものです。」
「また面倒な話ね……。」千紗は呆れたように呟いた。「あの陛下、わざと噂になるような言い方をしたに違いないわ。」
エリカは苦笑いしつつ、「でも、そういう噂が広まるということは、それだけ千紗様が信頼されている証拠では?」と励ますように言った。
「信頼されるのはありがたいけど、それが妃候補の噂に繋がるのは困るわよ。」千紗は頭を抱えながら答えた。
---
貴族たちの反応
噂を耳にした貴族たちは、それぞれ異なる反応を示した。一部の貴族は千紗を妃候補として推す声を上げ、彼女を皇帝のそばに置くべきだと主張した。
「千紗補佐官ほどの方が妃になれば、宮廷はより安定するでしょう。」
しかし、他方では反対意見も少なくなかった。
「商家出身の娘が妃になるなど、宮廷の格式に合わないのでは?」
千紗はこれらの意見を耳にするたびに、内心で辟易していた。
「妃になるつもりなんて全くないのに、どうして私が話題の中心にならなきゃいけないの?」
そんな状況でも、彼女は冷静さを保ち、普段通りの補佐官の仕事に取り組んだ。
---
セイラスの本心
千紗が執務を終え、ようやく一息ついた夜、セイラスが彼女を再び呼び出した。今度は謁見室ではなく、宮殿内の小さな庭園だった。
「千紗、そなたの反応を見て確信した。」セイラスは静かに話し始めた。「妃になる気は全くないのだな。」
「ええ、当然です。」千紗は即答した。「私は補佐官として陛下を支えることで手一杯です。それ以上はご遠慮します。」
セイラスは小さく笑い、「そなたがそう言うなら、それでいい」と答えた。そして、真剣な眼差しで続けた。
「だが、世はそなたを信頼している。妃ではなくとも、これからもそばで支えてくれ。」
「もちろんです。それが私の仕事ですから。」
千紗の答えに、セイラスは満足げに頷いた。しかし、その視線には、ただの補佐官以上の存在として千紗を見ているような感情が垣間見えた。
---
揺るがぬ覚悟
庭園を後にした千紗は、夜空を見上げながら小さく息を吐いた。妃候補の噂が宮廷内でどれだけ広まろうとも、彼女の立場は揺るがない。
「私はただ、補佐官として与えられた役割を全うするだけ。それが一番平穏で安全な選択肢なんだから。」
そう自分に言い聞かせながら、千紗は次の試練に向けて心を整えていた――。