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02_底無し井戸の怨嗟

中村健一の変死事件は、禍福村にかつてない衝撃と恐怖をもたらした。警察による大規模な捜査が開始されたものの、死因は不明、遺体の状況は猟奇的としか表現できず、捜査は初日から暗礁に乗り上げていた。村人たちは互いに顔を見合わせては囁き合い、その囁きはいつしか「鬼哭祠の祟りだ」「いや、もっと得体の知れない何かがこの村に巣食っている」という、漠然とした、それでいて確信めいた恐怖へと変わっていった。


そんな騒然とした村の雰囲気とは裏腹に、葦辺雁の日常はほとんど変わらなかった。朝は遅くまで寝床におり、昼過ぎにのそりと起き出しては安酒を呷(あお)り、気が向けば近隣をあてもなく散策する。ただ一つ変化があったとすれば、彼の顔を訪れるようになった野良猫が、以前にも増して彼を警戒し、露骨に避けるようになったことくらいだった。雁が縁側に姿を見せるだけで、庭先で日向ぼっこをしていた猫が毛を逆立てて「フシャーッ!」と威嚇し、脱兎のごとく逃げ去る。

「……なぜだ。俺はただ、静かに愛でたいだけなんだがな」

雁はぼんやりと呟くが、本気で気にかけている様子はない。猫に嫌われるのもまた、彼にとっては日常の一コマに過ぎなかった。


健一の事件から一週間が過ぎた頃、雁の内に新たな創作の熱がふつふつと湧き上がってきた。村に垂れ込める重苦しい空気、人々の顔に刻まれた恐怖と疲弊、そして何よりも、石舞台で見つかった健一の遺体の異様なイメージ――それらが雁の感性を激しく揺さぶり、言葉を欲していた。

「……そうか、次は、アレだな」

雁の脳裏に浮かんだのは、村のはずれ、今はもう使われていない古い共同井戸の存在だった。幼い頃、この村に移り住む前に少しだけ暮らした別の田舎町で、似たような古井戸にまつわる怖い話を聞いた記憶が蘇る。井戸の暗い底には、何かよくないものが棲んでいる、というような。

彼はいつものように書斎に籠り、墨をする。その表情は常の虚ろさとはかけ離れ、まるで獲物を前にした獣のように鋭く、どこか恍惚としていた。

「魂の澱(おり)を掬(すく)い上げ、言霊(ことだま)の血肉を与える……」

口の中で何事か呟きながら、雁の筆が和紙の上を滑り始めた。やがて、三首目の「シン万葉」が産み落とされた。


底暗き 古井の底に 長き髪 水面に揺れて 骨を噛む音


(そこぐらき ふるいのそこに ながきかみ みなもにゆれて ほねをかむね)


「くく……いい。実に、いいじゃないか」

雁は自作の歌を低く詠み上げ、満足げに息を吐いた。古井戸の暗い水底に揺らめく長い髪。そして水面から微かに聞こえてくる、骨を噛むような不気味な音……。じめじめとした陰惨な情景が、彼の心を満たしていく。

彼はその歌を、これまでの歌と同様に丁寧に清書し、部屋の壁に貼り付けた。すでに数首の凶歌が並ぶ壁は、禍々しい呪詛の祭壇のようにも見えた。

「さあ、この歌はどんな魂の景色を見せてくれるのかね」

雁は新たな酒を求め、気だるげに書斎を後にした。彼の背後で、和紙に染み込んだ墨の文字が、まるで生きているかのように蠢(うごめ)いているのを、彼は知る由もなかった。



その歌が詠まれて数日後、禍福村に新たな異変が静かに、しかし確実に広がり始めた。

最初に気づいたのは、村で唯一の雑貨屋を営む老婆、田所トメである。トメの店には小さな古井戸があり、今では飲料用には使われていないものの、庭の水やりや打ち水などに利用していた。

ある朝、トメが井戸水を汲み上げようと釣瓶(つるべ)を降ろした時、水面がいつもより黒ずんでいることに気づいた。加えて、鼻をつくような微かな腐臭。

「おや……? なんだい、こりゃあ」

訝(いぶか)しみながら水を汲み上げると、桶の中の水には、まるで細い髪の毛のような黒い繊維質のものが無数に混じっていた。それは水面全体を覆うほどで、あたかも水底から大量の髪が湧き出てきたかのようだった。

「気味が悪いねえ……」

トメは鳥肌が立つのを感じ、その水を慌てて捨てた。


同じ頃、村の別の場所でも、同様の現象が報告され始めていた。昔ながらの家屋には、庭先に古井戸が残っている家が少なくない。それらの井戸の水が、軒並み黒ずみ、髪の毛のようなものが浮遊し、腐臭を放ち始めたのだ。

「うちの井戸もだ!」

「昨日までは何ともなかったのに!」

村人たちは気味悪がり、古井戸の使用を一切取りやめた。水道水が普及しているため生活に大きな支障はなかったが、村のあちこちの古井戸から異臭が漂い始め、そこかしこに黒く濁った水溜まりができる光景は、人々の神経をますます苛(さいな)んだ。


さらに数日後、異変は井戸水だけにとどまらなくなった。

村のあちこちで、「水の中から声が聞こえる」という噂が立ち始めたのだ。最初は子供たちの間で囁かれていた他愛のない話だった。

「井戸の底からね、女の人が呼んでるんだよ」

「違うよ、コツコツって、何かを叩いてる音だよ」

だが、やがて大人たちの中にも、その「音」や「声」を耳にする者が現れ始めた。特に、古井戸の近くに住む人々が、夜な夜な井戸の底から響いてくる不気味な音に悩まされるようになった。

ある者は、啜り泣くような女の声を聞いたと言い、ある者は、何か硬いものを執拗に噛み砕くような音――ゴリ、ゴリ、という湿った音――を聞いたと怯えた。それは次第に鮮明になり、眠りを妨げるほどの大きな音量で聞こえることもあったという。


ついに、決定的な事件が起こった。

村に住む若い母親、島崎美代子(しまざきみよこ)、三十歳。彼女には五歳になる娘が一人いた。美代子は比較的最近村に嫁いできた女性で、夫は日中町へ働きに出ており、普段は娘と二人きりで過ごすことが多かった。

ある日の夕暮れ時、夫が仕事から帰宅すると、家の中が妙に静まり返っていることに気づいた。いつもなら出迎えてくれる妻子の姿がない。

「美代子? おーい、いるか?」

呼びかけても返事はない。不安を覚えながら家の中を探すと、彼は裏庭に通じる勝手口が開いているのを見つけた。そして、裏庭にある古井戸の縁に、娘の小さな赤い靴が片方だけ揃えて置かれているのを発見した。

「まさか……!」

血の気が引くのを感じながら、彼は井戸に駆け寄った。井戸の蓋は開け放たれ、暗い水面が静かに広がっている。彼は懐中電灯を取り出し、震える手で井戸の底を照らした。

「うわあああああああっ!」

夫の絶叫が、静まり返った村の夕闇に木霊した。

井戸の底には、水に浸かった美代子の姿があった。彼女は、長い髪を水面に漂わせ、虚な目を見開いたまま、何かを――何か白く細長いものを――口に咥え、それを執拗に噛み砕いていたのである。ゴリ、ゴリ、という不気味な音が、暗い井戸の底から微かに響いてきていた。それは、彼女自身の指の骨だった。

その美代子の傍らには、水面に浮かぶようにして、小さな娘の亡骸が……。娘の身体にもまた、無数の噛み跡があったという。


この惨劇は、禍福村を完全なパニック状態に陥れた。立て続けに起こる常軌を逸した事件。佐知子の狂乱、健一の血を抜かれた遺体、今回の母子による井戸での猟奇的な死。村人たちはもはや、見えない恐怖に完全に支配されていた。

「もうだめだ……この村は呪われている!」

「逃げ出すしかない!」

そんな声が公然と上がり始め、実際に村を捨てて親類の家などに避難する者も出始めた。村長や村の有力者たちも、なすすべなく呆然とするばかりだった。警察の捜査も、あまりに超常的な事件の連続に、事実上、機能を停止していた。


葦辺雁は、島崎母子の事件を、いつものように村の噂話を通して耳にした。彼は酒を片手に縁側で夕涼みをしながら、その話を聞いた村の若い男の、恐怖に歪んだ顔をぼんやりと眺めていた。

「へえ、古井戸でねえ……。親子揃ってとは、また業が深いことで」

彼の口調は、どこまでも他人事だった。目の前で語られる悲惨な事件の詳細も、彼にとってはただの物語の一節、あるいは刺激的なゴシップ程度のものでしかない。

「自分の指を、ねえ……。骨を噛む音か。歌の通りになったもんだ」

雁は自嘲ともつかぬ薄笑いを浮かべた。もちろん、自分の歌が直接事件を引き起こしたなどという確信はない。だが、こうも立て続けに自分の歌の世界観をなぞるような事件が起これば、ある種の奇妙な共犯意識とでもいうべき感情が、彼の心の奥底で芽生え始めていた。それは罪悪感ではなく、むしろ倒錯した全能感に近いものだったかもしれない。

世界が、自分の歌に呼応している。自分の言葉が、この世界の禍々しい本質を暴き出し、現実を歪める力を持っているのではないか――。そんな荒唐無稽な妄想が、彼を捉えつつあった。

「それにしても……『水面に揺れる長き髪』か。美しいじゃないか。実物もさぞかし……いや、それもまた一興か」

彼は空になった徳利を置くと、ゆっくりと立ち上がった。外はすでに闇に包まれ、村のあちこちから、押し殺したような人々の不安な気配が漂ってくる。それらの全てが、雁にとっては心地よいBGMのように感じられた。

「よし……また魂が震えてきた。こりゃあ、今宵も傑作が生まれそうだ」

彼の足取りは、僅かな興奮を帯びて書斎へと向かう。新たな恐怖、新たな絶望。それらは全て、彼の「シン万葉集」の新たな一首となるべく、彼の中で渦巻いている。

禍福村を覆う濃密な闇は、雁にとってはインスピレーションの宝庫そのものだった。彼の凶歌は、村人たちの悲鳴と絶望を吸い上げて、さらに禍々しく、さらに美しく咲き誇ろうとしていた。

窓の外では、どこかの古井戸からか、風に乗って、気のせいか、何かを啜り泣くような微かな音が聞こえてくるような気がした。雁はそれに気づくことなく、ただ黙々と筆を走らせる準備を始めた。彼の凶歌は、まだその深淵を覗かせたに過ぎないのかもしれない。

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