島崎母子の凄惨な事件は、禍福村に決定的な打撃を与えた。もはやこの村は呪われている――その確信が、燻る恐怖の残り火に油を注ぎ、制御不能な恐慌の炎となって村全体を舐め尽くさん勢いであった。警察の捜査は事実上頓挫。科学では説明のつかない現象の連続に、捜査員たちはただ困惑し、立ち尽くすばかりだった。夜逃げ同然に村を出ていく者、家に閉じこもり何かに怯え続ける者、あるいは僅かに残った正気で神仏に救いを求める者……。禍福村は、緩やかな崩壊の淵に立たされていた。
そんな終末的な喧騒とは無縁であるかのように、葦辺雁は変わらぬ日常を送っていた。昼過ぎに起き出し、縁側で濁り酒を啜る。彼の周りだけ、世界の時間が歪んでいるかのように静かだ。庭先に迷い込んでくる野良猫たちは、以前にも増して雁の姿を認めると、まるで悪鬼でも見たかのように背中の毛を逆立てて逃げ去るようになった。その数は日に日に増え、今や雁の半径十メートル以内に猫が近寄ることすらない。
「……ふむ。猫避けの結界でも張られているかのようだ。いやはや、不本意なことだな」
雁はどこか楽しむように呟き、熱燗を一口含む。猫に嫌われる理由など、彼にとってはどうでもよい些事であった。むしろ、村を満たす濃密な死の気配、人々の魂が恐怖に染め上げられていく様こそが、彼の内なる「何か」を心地よく刺激し、新たな歌の萌芽(ほうが)を予感させていた。
中村健一の血抜き死体、島崎母子の井戸での狂死。それら鮮烈なイメージは既に雁の中で昇華され、過去の作品として壁に貼り付けられている。今、彼の心を捉えていたのは、もっと原始的で、それでいて普遍的な恐怖の形だった。
「見られる……視線か。古来より、人は見えぬ視線に怯えてきた。ならば、その視線が、形を持って現れたとしたら……?」
雁の脳裏に、ある悍(おぞ)ましい情景が浮かび上がった。無数の「目」。壁に、床に、天井に、道端の石ころに、木々の葉の裏に、己の掌にすらも――ありとあらゆる場所に意志を持った目が現れ、ただじっとりとこちらを見つめ続ける、そんな光景。悪夢そのものでありながら、同時に、雁にとっては抗いがたいほど魅力的な創作のモチーフだった。
書斎に籠った雁は、常とは異なり、酒を脇に置いた。全神経を研ぎ澄まし、意識の底から禍々しい言葉を掬(すく)い上げる。その顔には、もはや虚ろさの欠片もない。瞳孔は爛々と開き、口元には法悦にも似た薄笑いが浮かんでいる。あたかも、神降ろしの儀式を行う巫(かんなぎ)のようでもあった。
淀みなく、一文字一文字に呪詛を練り込むかのように彼の筆が和紙の上を走り、新たなる凶歌がこの世に産み落とされた。
人肌に 蛆虫のごと 芽吹く眼は 瞬きもせず 紅涙流す
(ひとはだに うじむしのごと めぶくまなこは まばたきもせず こうるいながす)
「……くくっ。傑作、だな」
雁は低く喉を鳴らした。自らの歌の持つ、おぞましくも倒錯した美しさに戦慄する。人間の皮膚を突き破り、まるで蛆虫が湧くように次々と生えてくる無数の目玉。それらは瞬きもせず、ただ赤い血の涙を流し続ける……。なんという冒涜的で、グロテスクで、魂を揺さぶる情景だろうか。雁はしばしそのイメージに陶然と浸り、やがてその歌を丁重に清書すると、他の歌と同様に部屋の壁へと貼り付けた。異様な呪力のこもったその壁は、もはや彼の聖域であり、この世ならざるものへの窓でもあった。
「さて……この魂の震えは、世界にどんな色彩を添えてくれるのか、楽しみだな」
雁はそこで初めて酒に手を伸ばし、ぐいと呷った。背後で、和紙に染みた歌の文字が、まるで意思を持ったかのように微かに蠢いたのを、彼はやはり気付かない。
*
その凶歌が詠まれてから数日。禍福村を覆う恐怖は、新たな局面を迎えていた。
最初に異変を訴えたのは、製糸工場で佐知子の同僚だった吉岡春恵(よしおかはるえ)という二十代半ばの女性である。春恵は佐知子の狂乱を目の当たりにして以来、どこか神経質になっていたが、この数日は特に異常だった。
「見られてる……ずっと、誰かに見られてる気がするの……」
彼女は同僚たちにそう怯えながら訴えた。はじめは気のせいだと周囲も宥(なだ)めていたが、春恵の症状は急速に悪化していく。
「壁に!壁にも目が!天井にも!あの柱にも!みんな、みんな私を見てるのよ!」
ある日、春恵は工場の休憩室で突然叫び出し、置いてあった茶碗や灰皿を壁に向かって投げつけ始めた。その目は恐怖に見開かれ、焦点が合っていない。錯乱した春恵は、近くにあった糸切り鋏を手に取ると、自らの両目を潰そうとした。周囲の人々が数人がかりで取り押さえ事なきを得たが、彼女はその後も「目が、目が無数にあるの、助けて!」と泣き叫び続け、自宅での療養を余儀なくされた。春恵の家からは、夜な夜な彼女の悲鳴が聞こえてくるという。
この症状は春恵だけにとどまらなかった。村のあちこちで、「どこもかしこも目だらけだ」という幻覚を見る者が続出したのだ。子供から老人まで、年齢も性別も問わず、それは襲いかかった。道端の石が、家々の窓が、森の木々が、夜空の星々までもが、ぎょろりとした赤い目玉となって自分を見つめてくるという。
何人かは、その恐怖に耐えきれず精神の均衡を失った。家中の鏡という鏡を叩き割り、「見られるのはもうたくさんだ」と呟きながら自室に引き籠もる者。自分の皮膚の下に無数の目が蠢いている幻覚に苛まれ、常に身体を掻きむしり、血まみれになる者。
村は、集団ヒステリーを通り越した、一種の「視覚的汚染」とでも言うべき状況に陥っていた。だが、これはまだ序の口に過ぎない。葦辺雁の歌は、そんな生易しいものではなかった。
真の恐怖は、村長である田畑茂(たばたしげる)を襲った。
田畑村長は、この一連の怪異に対し、最後まで理性的に対処しようと努めてきた数少ない人物の一人だった。オカルトや祟りといったものを信じず、あくまで現実的な解決策を模索し続けていた彼自身が、雁の最新の凶歌の最も忠実な体現者となる運命だったのである。
最初は、全身の激しい痒みだった。夜も眠れないほどの痒みに、皮膚科を受診したが、原因不明の湿疹と診断されるのみで、処方された薬も全く効かなかった。
やがて、痒みのあった箇所に、赤い小さな斑点が無数に浮き出てくる。はじめは虫刺されのようにも見えたが、日を追うごとにその斑点は僅かに盛り上がり、中央に小さな黒点が現れた。
異変に最初に気づいたのは、村長の妻だった。ある朝、夫の背中にびっしりと浮かんだ赤い斑点を見て、彼女は悲鳴を上げた。それは、おびただしい数の小さな「蕾」のようにも見えた。
「あなた……これ……!」
村長自身も鏡で見て絶句し、言いようのない恐怖がその全身を貫いた。小さな黒点が、まるで瞳のように見えたからだ。
隠し通せるものではなかった。数日後、それらの「蕾」は一斉に「開花」する。
村長の全身の皮膚から、直径一センチほどの、爛々と輝く赤い目玉が、文字通り「芽吹いて」きたのだ。顔も、首も、腕も、足も、腹も、背中も、区別なくびっしりと。数え切れないほどの目が、それぞれが独立した意志を持っているかのように、ぎょろぎょろと絶え間なく動き、村長自身を見つめ、周囲を見回した。
その目は瞬きをしなかった。ただ、じっとりと赤い涙のような粘液を絶えず流し続けていた。
「うわああああああああああっっっ!!」
村長の屋敷から、人間のものとは思えぬ絶叫が響き渡った。
助けを求めようにも、その姿はあまりにおぞましく、誰一人近づくことすらできない。妻は最初の発見時に失神し、その後は恐怖で寝込んだままだった。
村長は、己の身体に芽吹いた無数の目に見つめられながら、孤独の中で狂気に墜ちていった。彼は自分の身体を掻きむしり、壁に打ち付け、その「目」を潰そうとしたが、目は潰れても潰れても、まるで生命力に溢れた植物のように次々と再生し、数を増やしていくのだった。
田畑村長の最後の姿を発見したのは、数日後、意を決して様子を見に来た消防団の若者たちだった。村長の私室の床に、それはあった。
もはや人間の形を留めていない。赤い目玉にびっしりと覆われた、肉の塊。微かに蠢き、一つ一つの目がぎょろぎょろと動いて、入ってきた者たちを見つめた。その無数の目からは、絶え間なく赤い涙が流れ落ち、床に血溜まりのような染みを作っている。もはや生きているのか死んでいるのか判別もつかず、ただ圧倒的な恐怖と嫌悪感だけを周囲に撒き散らしていた。
発見者たちは、声もなく逃げ出した。その後、村長の屋敷は禁足地となり、誰も近づこうとはしなかった。禍福村の行政機能は完全に麻痺し、村は無政府状態と変わらぬ有様となった。
*
葦辺雁は、田畑村長の末路を、風の噂で聞いた。
村長の屋敷から漂ってくる異様な腐臭、そこから逃げ出してきた人々の恐怖に歪んだ顔、途切れ途切れに語られる信じ難い話の断片。それらを総合し、雁は事の真相をおおよそ理解した。
「ほう……人肌に、蛆虫のごとく芽吹く眼、ね。そして紅涙を流す、か。実に、歌の通りじゃないか」
雁は縁側で一人、いつものように安酒を片手に、満足げに頷いた。その顔には、同情も、恐怖も、罪悪感も、一切浮かんでいない。ただ、自らの創作物が現実世界にこれほどまでに忠実に、そして芸術的に(と彼は感じている)再現されたことに対する、純粋な知的興奮とでもいうべきものが漲(みなぎ)っている。
「いやはや、ここまで来ると、笑えてくるな。世界とは、これほどまでに脆く、美しいものだったとは」
彼は空を仰ぎ、くつくつと喉を鳴らして笑った。その笑い声は、どこか乾いていて、人間的な感情が欠落しているかのようだ。
自分の歌が、この惨劇を引き起こしているのかもしれない――その可能性は、もはや彼の頭の中では確信に近くなっていた。しかし、それは彼にとって何の障害にもならない。むしろ、この倒錯した全能感を、一種の天啓のように受け止めていた。自分がこの世界の真理の一端に触れ、それを「シン万葉」という形で表現しているのだ、と。
「『千の目が哭く森』……ふむ。村長殿の最後の舞台は、さながらそんな光景だったのかもしれんな」
雁は遠い目をして呟いた。彼の視線の先には、村の外れに広がる深い森があった。その森が、次の歌の舞台として彼を呼んでいるかのようにも思えた。
窓の外からは、遠雷のような、それでいて異なる不気味な音が時折聞こえてくる。それは逃げ惑う人々の足音か、どこかでまた新たな怪異が起きているのか、あるいは世界そのものが軋みを上げている音なのか。それらの音すら、雁にとっては創作意欲を掻き立てるBGMに過ぎなかった。
彼はゆっくりと立ち上がり、再び書斎へと向かった。そこには、彼を待ち受ける真っ白な和紙と、彼の魂の深淵を映し出す筆がある。
「さあ、次はどんな魂の葬送歌(エレジー)を詠んでやろうか。この狂った世界は、まだまだ俺を楽しませてくれそうだ」
その薄笑いは、もはや神のそれに近いか、あるいは悪魔のそれか。
禍福村を飲み込もうとしている絶望の闇は、葦辺雁の凶歌にとって、最高の栄養源であり続けている。彼の歌は、この村が完全に崩壊し、誰もいなくなるその時まで、決して止まることはないだろう。そして、その先にあるものを、彼だけが仄暗い瞳で見据えているのかもしれない。凶歌は、その狂い咲きをさらに加速させていく。