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05_虚無への凱旋

禍福村は、死臭漂う巨大な墓碑銘と化していた。かつて人の営みがあった痕跡は、風化し崩れ落ちた家屋の残骸と、名も知れぬ雑草に覆われた道筋にかろうじて認められるのみ。空気は硝子のごとく冷たく張り詰め、あらゆる音を吸い込むかのよう。陽光すらこの土地を避けるように弱々しく、昼と夜の境界は曖昧に溶け合い、永劫の黄昏が支配していた。生命の気配は皆無。鳥の声、虫の音、風の囁きすら、呪われたこの土地からは駆逐されていた。それでも時折、遠くで何かが不定形に蠢き、あるいは巨大な粘体が呼吸するような、そんな現実離れした音が、鼓膜の奥にかすかな痒みとして届いていた。


廃墟の中心、かつて葦辺雁の古民家があった場所は、異様なまでに原型を留めていた。周囲の崩壊から意図的に保護されているのか、あるいは雁自身が放つ不可思議なオーラが、物理的な腐敗すら寄せ付けぬのか。

雁は縁側で相変わらず酒を呷っていた。もっとも、酒蔵の最後の徳利も底が見え始めて久しい。水甕の水は濁り、井戸は最早、名状し難い何かの巣窟と化している。食料も尽きかけていたが、雁の表情に焦りや困窮の色は一切ない。霞でも喰って生きる仙人のごとく、己の肉体の維持という低俗な営みから超越した存在のように、彼は静かに座すのみだった。

「……ふむ。猫どころか、蝿一匹すら寄り付かなくなったか。清々しいまでに、無だな」

虚空を見つめ、誰にともなく呟く。その声は水面に落ちた小石のごとく、この世界の静寂に微かな波紋を広げるだけで、すぐに吸い込まれて消えた。

彼の瞳は、もはや虚ろでも諦観でもない。そこにあるのは、絶対的な虚無を見据え、その奥に何らかの「美」を見出そうとする、純粋にして冷徹な探求者のそれ。世界の終わりは、彼にとって悲劇でも終末でもない。一つの完成された「詩作品」であり、純然たる観察対象だった。


彼の「シン万葉集」は、壁を埋め尽くし、床にまで溢れかえっていた。それぞれの和紙に刻まれた禍々しい言霊は、この部屋の空気そのものと融合し、一種の異界を形成している。雁はそれらを時折手に取り、自作の歌を低く吟じる。それは確認作業めいたものであり、新たな呪詛を練り上げる前の儀式でもあった。

「『魂片は肉の檻より解き放たれ、虚の器に入り乱れては形変え遊ぶ』……か。実に、あの騒がしい日々が懐かしい。今のこの静寂は、あの戯れの果ての到達点か、それとも、さらなる混沌への序曲なのか」

雁はゆっくりと立ち上がり、埃っぽい書斎へと向かった。彼の内では、最後の、おそらくは最も強大な歌が、熟れすぎた果実のごとく破裂の瞬間を待っていた。それは明確な言葉の形を取る以前の、より根源的な「何か」。世界そのものを解体し、再定義するほどの力を秘めた、純粋な創造と破壊の衝動だった。

酒を求めることもなく、彼は硯に最後の墨を摺り始めた。その表情は能面のようだが、瞳の奥には、この世の理を超えたものと交感する者の、狂気を帯びた輝きが宿る。

「魂の叫び、ねえ。そんな生易しいものではない。これは……世界の断末魔を、我が言霊で調律する鎮魂歌(レクイエム)、そして祝祭のファンファーレだ」

筆が、おもむろに和紙の上を滑り出した。それはもはや歌を「詠む」という行為ではない。世界の構造を書き換える禁断の呪文を、あるいは新たな宇宙の設計図を、狂った神が書き記すがごとくだった。


うつろなる 神の眼窩に 星々の

最後のひかり 点りては消ゆ

虚空の深淵に 万象溶けゆき

色の名もなし ただ無音の音

満ちて満ち足りぬ


(うつろなる かみのまなこに ほしぼしの

さいごのひかり ともりてはきゆ

こくうのふかみに ばんしょうとけゆき

いろのなもなし ただむおんのね

みちてみちたりぬ)


「……ああ。……これだ。これしかない」

雁は筆を置くと、深いため息をついた。それは疲労ではなく、至高の作品を完成させた芸術家の、恍惚にも似た安堵だった。空っぽの神の眼窩に宇宙最後の光が灯り、そして消える。全てが虚無に溶け、色も形も失われ、音なき音のみが満ちる世界――。それは破壊の究極であり、同時に完全なる調和。雁は自らの歌が生み出すその途方もない光景に、しばし魂を奪われたように立ち尽くした。

そして、その歌を丁寧に清書し、これまでの歌の中心、最も目立つ場所に貼り付ける。彼のシン万葉集という名の凶星図の中心に、ブラックホールを設置するかのごとく。

その瞬間、世界は、明確に、そして不可逆的に軋み始めた。



最初に、音という概念が崩壊した。

雁の家の外から聞こえていた不定形の蠢きや呼吸に似た音は、ぷつりと途絶えた。いや、途絶えたというより、音そのものが「意味」を失った。雁が徳利を床に置く乾いた音も、自身の衣擦れの音も、彼の鼓膜には届かない。聞こえるのは深海の水圧、あるいは宇宙空間の絶対零度を思わせる、形容し難い「無音の圧迫感」だけだった。だが、雁の表情は変わらない。彼はその現象を「なるほど」とでも言うように、冷静に受け止めるのみだった。


次に、色彩が剥落していった。

禍福村の黄昏は、まずその赤みを失い、次いで青みが抜け、古いモノクロ写真のように色褪せていく。雁の部屋にある和紙の白、墨の黒、くたびれた和服の藍さえもが、徐々に彩度を失い、濃淡の異なる灰色へと均一化されていく。窓の外の、かろうじて形を保つ木々や家々の輪郭は、水墨画が水に滲むように曖昧になり、やがて全てが灰色の濃霧に覆われたかのごとき風景へと変貌した。

雁の肌の色もまた血の気を失い、陶器のような白さから、さらに無機質な石膏の色へと変化した。しかし、彼は鏡を見ようともしない。彼の興味は、もはや自身の肉体にはなかった。

「色が消え、音が消え……次に消えるのは形か。それとも、存在そのものか。楽しみだ」

彼の口から漏れた言葉は音にはならなかったが、意識の中では明確な意味を成した。あるいは、言葉を介さずとも、その思考が直接、崩壊しつつある世界に影響を与えているのかもしれない。


そして、空間が歪み始めた。

雁の書斎の壁は呼吸するように微かに膨張と収縮を繰り返す。床は水面のように波打ち、天井は星空のごとく無限の奥行きを見せ始めた。目の前にあるはずの筆や硯が、手を伸ばすと蜃気楼のように揺らぎ、掴むことができない。何もないはずの空間からは、唐突に見知らぬ形状の物体が出現しては泡のごとく消え失せる。

庭にあった奇妙な成長を止めた桜の木が、突如ガラス細工のように砕け散り、その破片の一つ一つが小さな太陽のごとく発光しながら宙を舞った。雁の家そのものも、時折、船のように揺れ、どこか途方もない場所へ航行しているかのような感覚を彼に与えた。

この狂った物理法則の崩壊も、雁にとっては子供の万華鏡遊びに等しく、ぼんやりと次は何が起こるのかを待つばかりだった。


雁の精神は、もはや常人のそれではない。彼はこの世界の溶解を、自分自身の内面の風景が外側に投影されたものとして捉えている節さえあった。彼自身がこの世界の崩壊と同期し、虚無という概念そのものへと近づいているのかもしれない。

ふと、彼の視界の隅に、何かが現れた。

かつて彼が詠んだ歌の登場人物たち。

夕闇の中で腹を裂き、腸を引きずりながら踊る乙女の影。石舞台で血を吸った赤土の上で、永遠に踊り続ける骸のシルエット。古井戸の底からこちらを覗き込む、長い髪の女の蒼白い顔。そして、皮膚から無数の目玉を芽吹かせ、紅涙を流し続ける、かつての村長の成れの果て。

彼らは実体があるのかないのか判然としない、煙のような存在として雁の周りをゆらゆらと漂い始める。何かを訴えようとするでもなく、創造主である彼をただ見つめていた。

「やあ、諸君。久しぶりだな。我が歌の住人たちよ」

雁は、音にならない声で彼らに語りかけた。

「この世界も、そろそろお開きのようだ。君たちも、私の歌と共に永遠の虚無へと還る時が来たのかもしれん。あるいは、新たな世界で、また別の役を演じることになるのか……それは、私にもわからんがね」

彼の顔には、微かな笑みすら浮かんでいた。自らの創造物に対する親愛の情か、それとも全てを終わらせる神の慈悲か。

乙女の影がくすくすと笑った気がした。骸はカタリと骨を鳴らしたように感じた。井戸の女はその長い髪を揺らし、村長の無数の目は一斉に雁を見つめた後、ゆっくりと閉じられていく。


やがて、雁自身の身体にも、最終的な変化が訪れ始めた。

彼の指先が霞のごとく透けていき、その向こうの歪んだ景色が見える。足元から、身体がゆっくりと霧散していくかのよう。肉体という束縛から解き放たれ、より希薄な、純粋な意識だけの存在へと移行していく過程のようだった。

痛みも、恐怖もない。あるのは圧倒的な静けさと、全てが一つに溶け合うような不思議な安堵感だけだった。

「ああ……なるほど。これが……『満ちて満ち足りぬ』ということか」

彼は悟ったように、静かに目を閉じた。

彼が詠んだ最後の凶歌は、彼自身への、そしてこの世界への、最終通告。

それは万象を虚無へと還すための歌。彼自身が、その歌の最後の生贄であり、同時に最高の傑作だったのかもしれない。


葦辺雁が完全に消え去ったのか、それとも別の何かへと変容したのか、それは誰にもわからない。

彼の存在と共に、かつて禍福村と呼ばれた場所は、この世界の地図からも、あらゆる記録からも、完全に消え失せた。そこに広がるのは何もない「無」。あるいは、人間には知覚できない、全く新しい次元の何かが静かに胎動を始めたのかもしれない。

虚無への凱旋。シン万葉歌人、葦辺雁の凶歌は、世界そのものを道連れに、その終焉の調べを完成させたのだった。


その「無」の中心に、もしも何か残っているとしたら――それは風化することを知らぬ一枚の和紙。そこに記された、意味を剥奪された美しい文字の羅列。それは次なる世界が生まれる時、再び誰かの魂に宿り、新たな凶歌として萌え出ずる日を静かに待ち続けているのかもしれない。

それこそが、雁が望んだ永遠の「戯れ」だったのかもしれない。

だが、それもまた、今や無音の音が満ちるばかりだ。

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