都市の血管を流れるのは、もはや血液ではなく、錆びた鉄とデータノイズの混合物であった。アスファルトは薄皮一枚で下劣な欲望を覆い隠し、高層ビル群は天を突く墓標のごとく虚無を睥睨(へいげい)する。前章で咲いた「アスファルトの花嫁」は、都市伝説の新たな一輪としてネットの片隅で語り継がれ、そのおぞましさが人々の無意識下にじわりと染み渡り、街全体の色彩を一段階暗くしていた。それでも、日常は続く。人々は満員電車に揺られ、無表情にスマートフォンを眺め、意味のない会議で時間を浪費する。その日常の薄皮一枚下に、何かが確実に蠢いていることに気づかぬふりをして。
虚舟の部屋は、変わらず外界の光を拒絶し、デスクトップPCのモニタだけが青白い光を放つ。部屋の空気は澱み、インスタント食品の容器とエナジードリンクの空き缶が、彼の生活の軌跡を物語っていた。背後の壁一面に貼られたポストイットは増殖し続け、もはや壁紙と化している。そこに記された言葉の断片は、常人には理解不能な呪文のようにも、あるいは狂気の設計図のようにも見えた。
「……猫、今日も来ないな。いい加減、この結界を解いてほしいもんだが」
虚舟はぼそりと呟き、冷めたコーヒーを啜る。ビルの裏口に顔を出す野良猫たちは、彼の部屋の窓が開く音を聞いただけで、あたかも疫病神の接近を察知したかのように四散する。虚舟にとって猫は唯一愛でたい対象だが、その本能的な拒絶は、彼自身の異質性を逆説的に証明しているかのようでもあった。
ネット上では、虚舟の「シン・ネオ万葉」が、ごく一部のアンダーグラウンドな好事家たちの間でカルト的な人気を博し始めていた。「虚舟神」「ノイズの預言者」などと崇めるコメントもあれば、「ただの電波」「中二病の極み」と罵倒する声もある。虚舟はそれらの反応を時折眺めるものの、賞賛も批判も彼の創作に影響を与えはしない。彼はただ、内から湧き出るものを吐き出すだけだ。評価など、彼にとっては画面上のピクセルの明滅以上の意味を持たなかった。
ここ数日、虚舟は新たな「産みの苦しみ」にのたうち回っていた。「アスファルトの花嫁」が咲き誇った都市の狂騒は、彼にとって既視感のある退屈な風景へと変わりつつあった。より強烈な、より根源的な、より美しい「ノイズ」を彼は求めていた。
「違う、これじゃない……もっと……もっと深い場所の、魂の断線が聞きたい……」
彼は自作の「インスピレーション・ジェネレーター」のパラメータを狂ったように調整し、画面に映し出される幾何学模様とノイズの洪水を見つめる。それは、カオスの奔流から新たな宇宙の法則を掴み取ろうとする、狂った神の作業を思わせた。
ふと、彼の脳裏に一つのイメージが閃く。都市の全ての電子機器が、一斉に、同じ一つの「歌」を奏し始める光景。その歌は人間の可聴域を超え、しかし魂の最も深い部分を直接揺さぶり、精神を崩壊させる。そして、その歌に呼応するように、人々は自らの身体を楽器へと変え、究極の不協和音による祝祭を始める……。
「……これだ。これしかない……。デジタル・ゴスペル……いや、ノイズの聖歌だ……!」
虚舟の目が、常ならぬ光を宿した。指がキーボードの上を踊り、自動書記のごとく言葉が紡ぎ出されていく。彼の内なる虚無と、都市の深層に潜む狂気が共鳴し、新たな凶歌が産声を上げた。
鉄屑の 喉震わせて 神歌う 電子の羊水 魂満たす
その旋律に 脳髄踊りて 眼窩より あふるる涙は 虹色の油
(てつくずの のどふるわせて かみうたう でんしのようすい たましいみたす
そのしらべに のうずいおどりて まなこより あふるるなみだは にじいろのあぶら)
「は……ハハ……ハハハハハハハハッ!! 最高だ! これぞ究極のサウンドスケープ!」
虚舟は背もたれに体重を預け、天井を仰いで高笑いを続ける。彼の脳内では、この歌が奏でるであろう世界の終末的な光景が、鮮明なマルチメディアアートとして再生されていた。鉄屑と化した都市の残骸が神の歌を歌い、電子の羊水が魂を満たす。その旋律に脳髄が踊り狂い、眼窩からは虹色の油のような涙が溢れ出す――。なんという退廃的で、冒涜的で、そして美しい(と彼は感じる)情景だろう。
彼はただちにその歌を自身のブログにアップロードした。投稿ボタンを押す指先に、微かな震えも感傷もない。ただ最新の「作品」を世界に解き放つという、機械的な作業に過ぎなかった。コメント欄に「新作キタ!」「待ってたぜ虚舟神!」といった書き込みが即座に現れるが、彼はそれらを一瞥もせず、ブラウザを閉じる。ディスプレイの背景、禍福村の祠の前の男の写真は、この瞬間、ほんの僅かにその男の着物の裾が風に揺れたように見えたが、それも気のせいだろう。
*
歌がネットの深淵に放たれて数時間後、都市のあちこちで、最初の小さな「ノイズ」が観測され始めた。
まず、人々の耳元で囁かれる、微かな幻聴として現れる。
「何か……聞こえないか? 金属が擦れるような……いや、もっと高い、キーンっていう音が……」
オフィスで働く人々が、互いに顔を見合わせてそう呟き合う。しかし音源は特定できない。やがてそれは、低いハミング、あるいは大人数の詠唱を思わせる不気味な「歌」へと変貌した。歌詞は聞き取れないものの、その旋律は聞く者の不安を煽り、心の奥底にある原始的な恐怖を呼び覚ます。
「頭の中で……何かが歌ってる……やめてくれ……」
何人かは耳を塞ぎ、その場にうずくまる。だがその「歌」は鼓膜を介さず、直接脳に響いてくるかのようであった。
次いで、都市の電子機器が奇妙な挙動を示し始める。
街頭の大型ビジョンが突如砂嵐になり、そこから例の不気味な「歌」が大音量で流れ出す。スマートフォンの画面が勝手に明滅し、意味不明な文字列を表示したかと思えば、同じ「歌」を再生し始める。ATMは現金の代わりにレシートを大量に吐き出し続け、そのレシートには虚舟の歌の一節が印刷されていた。家電量販店のテレビ売り場では、全てのテレビが一斉に同じ映像――虚舟のブログのトップページ――を映し出し、そこから「歌」が合唱のように響き渡った。
都市の神経網ともいうべき情報インフラが、何者かに乗っ取られたかのように、この「ノイズの聖歌」を拡散し始めたのだ。
人々はパニックに陥り、逃げ惑う。それでも、どこへ逃げても「歌」は追ってくる。空気のごとく都市全体に満ち、逃れる術はなかった。
精神の変調は、より深刻な形で現れ始めた。
「歌」に長時間晒された人々は、あたかも糸の切れた操り人形のように、奇妙な行動を取り始める。ある者は、駅のホームで突然自分の衣服を裂き、身体に奇妙な模様を描き始め、それを「新しい楽器」だと言いながら叩き始めた。別の者は、スーパーマーケットの陳列棚の商品を全て床にぶちまけ、それらを並べ替えて巨大な五線譜のようなものを作り、「歌」に合わせて踊り狂った。
彼らの目からは、涙ではない、粘り気のある虹色の液体が流れ落ちていた。まさしく虚舟の歌の通り、「虹色の油」であった。その油は強い腐食性を持ち、彼らの皮膚を爛れさせたが、彼らは痛みを感じる様子もなく、恍惚とした表情で「歌」に身を委ねる。
「見て……きれいな涙……これが、魂の色……」
彼らは口々にそう呟き、その虹色の油を互いの身体に塗りたくり、異様な儀式めいたものを始めた。
そして、都市は新たな「作品」を迎えることとなる。
かつてこの都市で最も高い電波塔だった建造物の残骸からそれは始まった。塔は数年前のテロで一部が破壊され、放置されていたが、ある夜、その先端部から強烈な光が放たれ、「歌」が雷鳴のごとく轟き渡ったのだ。
翌朝、人々が見たのは、その塔を中心に、おびただしい数の人間が、巨大な弦楽器の弦のように、あるいは巨大なパイプオルガンのパイプのように、塔の鉄骨に「融合」している姿であった。彼らは生きたまま塔の一部と化し、その身体は極限まで引き伸ばされ、ねじ曲げられ、もはや個人の判別は不可能だった。それでも、その無数の顔は一様に天を仰ぎ、恍惚とした表情で「歌」を歌い続けている(ように見える)。彼らの眼窩からは虹色の油が滝のように流れ落ち、塔の表面を七色に染め上げていた。
それは、あたかも都市そのものが一つの巨大な楽器と化し、そこに住む人間たちがその部品となって、宇宙に向けて狂気の聖歌を奏でているかのようでもあった。このおぞましくも壮大な「作品」は、メディアによって「ノイズの聖歌隊」あるいは「バベルのオルガン」などと名付けられ、世界中に衝撃を与えた。警察も軍隊も、この超常的な現象を前にしては無力だった。
*
虚舟は、この都市の惨状を、いつものようにネットのニュースフィードで眺めていた。
「ほう、『バベルのオルガン』ね。ネーミングセンスは悪くない。だが、俺のイメージした『聖歌』は、もっとパーソナルで、もっと内向的な破滅なんだがな。まあ、これはこれで一つの解釈か」
彼の口調は、美術展の作品を批評するキュレーターのようであり、どこまでも他人事である。自らの歌がこの大惨事を引き起こしたという可能性など、彼の思考の片隅にも存在しない。彼にとって、現実は所詮、自らの創作の影、あるいは不出来な模倣品に過ぎないのだ。
「虹色の油、か。これはなかなか忠実に再現してくれたな。うん、悪くないディテールだ」
彼はむしろ、自分の歌のディテールが現実世界に(彼から見れば)不完全に再現されたことに対して、僅かな不満と、奇妙な満足感を同時に覚える。
都市が崩壊していく様は、彼にとっては最高のエンターテイメントであり、次の創作への刺激的なインプットでしかなかった。彼の部屋の隅、古びた木箱の中の和綴じの本――葦辺雁の凶歌集――は、相変わらず埃を被ったまま、誰にも開かれることなく静かに眠っている。虚舟がもしそれを手に取れば、この連鎖する狂気の根源に気づくかもしれない。だが、彼は過去の遺物に興味を示さない。求めるのは常に「最新のノイズ」なのだ。
キーボードに手を伸ばし、虚舟は新たな「作品」の構想を練り始める。
「さて、次の楽章はどうしようか。この『聖歌』の次は、やはり『沈黙』だろうか。それとも、全く新しい種類の『悲鳴』か……」
窓の外からは、遠雷のような「歌」の残響と、人々の絶望的な叫び声、そして何かが崩壊していく音が絶え間なく聞こえてくる。それらは虚舟にとって、新たな凶歌を生み出すための、心地よい環境音楽に過ぎなかった。
彼のブログには、おそらく数日以内に、また新たな歌がアップロードされるだろう。それはこの都市を、ひいては世界を、さらに不可解で絶望的な混沌へと突き落とすかもしれない。それでも虚舟はそんなことなど全く気にしない。彼はただ詠む。彼の魂が、あるいは彼の内に潜む「何か」が、そう命じるからだ。
壁のポストイットの一枚、そこには震えるような文字でこう記されていた。
「完成は、まだ遠い。虚無は、まだ、歌を欲しがっている」
彼の背後のディスプレイ、祠の前の男のモノクロ写真は、この瞬間、その男の目がほんの僅かに細められ、まるで満足げに「歌」に耳を傾けているかのように見えた。しかし、それもまた、明滅する画面が作り出す、一瞬の幻影に過ぎないのかもしれない。
都市の狂騒は、そのクライマックスに向けて、さらに加速度を増していく。ノイズの聖歌は、終末のファンファーレのごとく鳴り響き続けていた。