「最近なにかありましたか? 南方先生」
少し不思議そうにおそるおそるといった感じで問いかける文壇社・編集の山北達夫。
「まぁ、色々とありましたね」
深くは詮索しないでくれと暗に答える。
「そうですか。何というか、大人としての凄みが増した気がします。まぁ、私の一個人の感想ですが」
「大人としての凄みが増した気がする、ですか……。だとすれば、いいんですけどね」
「まぁ、とりあえず打ち合わせをしますか」
兎にも角にも話題の転換、もとい本題へと話を進める山北。
「はい。そうですね」
「では、次回作は先日送っていただいたプロットを元に進めていく方向でいきましょうか」
「はい…………」
数十分後。次回作……魔王の次の小説の打ち合わせはつつがなく終わった。
「では、執筆の方よろしくお願いします」
「はい。締め切りは三ヶ月後ですよね?」
「はい。そうです。お願いします」
「わかりました。一応、余裕をもって送るようにしますね」
「はい。では、以上で……」
「そういや、喜多方はしっかりとやっていますか?」
少しだけ気になっていたことを問いかける。
「はい。最近は問題を起こすこともなくちゃんとやっていますよ。あくまでも私の想像ですが、彼女は南方先生に会いたいがためにわがままを押し通していただけだと思いますよ」
「そうですか……。なら、良かった」
「しかも、南方先生の魔王のアンサー小説をあそこまでのクオリティで書くと思いませんでしたよ。それも、南方先生のおかげです。ありがとうございます」
ペコリと頭を下げる山北。
「いえいえ。あいつのおかげですよ。良くも悪くもね」
そうだ。あれは小説家・喜多方南の勝ち取ったものであり、俺はきっかけを与えられ。そして、きっかけを与えてやっただけだ。何も特別なことはしていない。俺は俺で。彼女は彼女だ。
「まぁ、南方先生のスランプの件も良くも悪くも喜多方先生の影響は多分にあるでしょうしね」
「そうですね。彼女がいなかったら、俺は筆を折られてなかっただろうし、前よりも小説が書けるようになることもなかったでしょうね」
すると、山北は「ふふふ」と笑いだし、
「……好敵手と書いてライバルというやつですか?」
と、少年漫画の代名詞的なことを言い出す。
「宿敵と書く場合もありそうですけどね」
「ははは。違いないですね」
「えぇ。全くですね」
***
「あぁ~っ! ダメだ、ダメだ! てんでダメだ!」
編集者の山北と打ち合わせを終えてからしばらくして、原稿に着手していたが、思いの外筆が進まない。以前のようなスランプというほどのことでもないが、自身の中の小説家としての要素……もとい、「何か」が足りないような感じがする。初期衝動というか、助燃剤となるものがすっからかんになっているかのような。不完全に燃焼を起こしているかのようななんともいえない感覚と、小説家として商業レベルの作品を書かなければならない、といった焦燥感が自身のネガティブな気持ちに拍車をかけていた。
「あんなは忙しいだろうし、山北さんは用事で連絡があまりとれないっていっていたしな……」
ふと、あの時の夜を思い出す。大人としての一歩を踏み出した刹那的な快楽の園を。
俺は何かを得たのだろうか? それとも、失ったのか? 童貞でなくなってから今日まで様々な問答を自身の中で繰り返していた。例えば、このカフェテラスを訪れるあのカップルも、あの初老の男性も。みんな大人しそうな顔をしてやることはやっているのだろう……といった邪推とゲスな勘繰り、憶測が脳裏を過る。童貞であった頃は、神秘のベールに包まれてわからなかったこと。それが、今では人並みに経験し、明るみになった。俺が経験したくらいだ。彼女……喜多方南ももしかしたら。
「……いつから、俺はこんなに凡庸になったんだろうな」
さっきまでは、温かく、満杯まであったコーヒーのように、人間も数秒前・数週間前の存在とは変わっていくものなのだろう。諸行無常、万物流転。この世の一切合切のものは変遷し、変わりゆく定めだ。
「……まぁ、アイツに聞いてみるか」
「で、話ってなんだ? センパイ?」
トレンチコートとマフラーに身を包んだギャル。もとい、後輩作家・喜多方南は電話したときには偶然、近くを通りかかっていたらしく、そのまま家に来てもらった。これを東方あんなに知られたらやばいと思うだろうが、彼女曰く、「喜多方先生なら大丈夫です」とのことらしい。
謎の信頼感だ。ともかく、同業者の意見やアドバイスを聞けるのは有り難いことだ。
「あぁ。新作の意見を聞きたくてな。今はとにかく、客観的な意見がほしい。途中までだけど、読んでもらえるか?」
コピー用紙、約八十枚分の原稿を喜多方に渡す。「うっす。じゃあ、読んでみるな」と、いいながら原稿に目を落とし、文字を隅々まで狩人のように追う彼女。そして、ものの二十分で全てを読み尽くした。それから、開口一番。自身でも無意識のうちに気づいていた……否。気づかないようにしていた原稿の欠点を指摘される。
「……この小説には良くも悪くも、顔がないな」
「……!!!」
「……何というか、物わかりの良すぎる大人が書いた読者に媚びへつらった小説、というのが正しいのかもしれないな」
「媚びへつらった……」
「……結論をいうぞ。アンタの作品には、魂が……熱意がごっそり抜けているんだよ。これでは、小説の皮を被った何かだ」
凛として現実という名の三行半を叩きつける彼女。「……はぁ……」と嘆息。こころなしか機嫌が少し悪くなる。
「…………」
俺はその時、何もいえなかった。事実だから。創作者として、プロとして、込めるべきものを作品に込め、落とし込めなかった自身の至らなさをただただ痛感する。「……ギリッ」と、どこかで奥歯を噛みしめる音が聞こえた。誰の音だ? 彼女か? いや、俺だった。気がつけば血が滲みそうなくらいに両手を……それも、「商売道具」を壊すかの勢いで握りしめていた。
「……おい、センパイ」
「……なんだ?」
「今のセンパイ、やべぇ顔しているぜ」
そういいながら、スマホの画面を鏡代わりに見せてくる。
「……!!!」
そこに写っていたのは、小説家ではない。正確にいうなれば、そんな生易しいものではないといった感じだった。牙を剥き出しにし、獰猛に笑う……「大人」の「兵士」がいた。それは、文章で織りなされる戦地の厳しさと、激しさを知るものの顔にも見えた。
かつて、書くことは殺し合うことだと唱えたものがいた。今の俺は、それの権化だ。ただただ、今日を生き抜くために戦地で戦う兵士が、生きるために。明日を、朝日を見るために。まだ見ぬ誰かを殺し、殺し合う。
それでいいのか? かつて、書くことは生きることだと異を唱えた自分はどこにある?
「……昔、書くことは殺し合うことだと私はいった」
「…………」
「……でも気づいたんだよ。書くことは殺し合うことと同時に、生きること。今日を生き抜くことだと!」
「でも、それでは矛盾しないか?」
「かもな。でも、それでいいんだよ。世の中、答えは数学のように解は一つじゃない。二つの答えがある場合もあるのかもしれないな……」
「何だよそれ……」
「ちょっとだけ、哲学っぽいだろ?」
「まぁな」
「まぁ、私にできるアドバイスはこれくらいだな。頑張れよ。センパイ」
そういいつつ、帰り支度を始める彼女。
そして。
「じゃあな、センパイ。東方先生によろしく!」
「あぁ。またな」
玄関の扉が閉まるその時まで、俺は彼女を見送った。「……キィィ。パタン!」と、扉の閉まる音が始まりを告げる。
「……よし!」
(……今から、書く原稿は毒にも薬にもなりかねない代物だ)
「キィィッ」というノートパソコンの重々しい起動音が鳴り響く。それは、不思議と神からの天啓にも思えた。
(しかし、俺は書かなくてはならない……!)
魔物を。魔の王を慈しむような。それでいて、試練を与えるかのような。
(一歩間違えれば、俺は狂乱の坩堝へと叩き落されるだろう。小説という魔物に取り憑かれた何かになるかもしれない)
それでも。光は見える。道筋は見える。ならば、それを辿ろう。あてのない「戦地」へと足を踏み入れ、足跡を刻もう。それが物語となり、一つの小さな説、もとい、大きな説すら内包した小説になるのだから。
(確かに俺は何かを失ったのかもしれない)
確かに残る喪失感。
(でも、それだけじゃない筈だ……!)
しかしながら、同時に何かを得たという充足感。そのテールランプを頼りに薄暗がりを進む。
まるで、塹壕でランプを頼りに戦地で戦う兵士にも見える。
(俺は何かを失ったのではない。何かを得るために生まれ変わったんだ!)
自然と手はピアノを奏でるかのようにキーボードを叩いていた。時には激しく。そして、優しく。衝動という名の主旋律を奏でていた。あの時。南方健三史上、最高傑作を書いたあの時に奏でていたのがシューベルトの魔王ならば、今は何であろうか? ふと、三日月が目に入る。
月の光。そうだ。これしかない……!
(タイトルは『月光』!)
太陽があるから、月は輝き。月があるから、太陽は燦然と輝き続けられる。
(大人にしか書けない男女のラブロマンスを。この世の理を描き出そう……!)
磁石同士が引かれ合うように、男女は惹かれ合う。そして、蜘蛛の糸のように愛を紡ぎ、遺伝子という名の二重螺旋を織りなし、次の時代へと繋いでいく。
(世界を……!)
(人々の心を! 月光のように優しく照らし出してやろう……!)
(俺は小説家・南方健三なのだから……!)
ベートーヴェンが「月光」を生み出したように、かつての偉人に倣おう。それが、神から与えられた使命なのだから。氏名に恥じない使命を。使命に恥じることのない氏名を。
(これが、俺だ……! 俺の全力だ……!!!)
かつての文豪。夏目漱石はこのように愛を表現した。
「月が綺麗ですね」と。