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第4話

 軍師様が就寝した後を見計らい、珠珠は可及的速やかに屋敷を脱走した。軍師様のペット生活も楽しそうだが、それはそれとして人間生活も捨てられないのだ。

 正直、人間生活はあまり楽しくないので、ペット生活も検討の余地がある。ただし、毎日お腹いっぱい菓子を食べさせてもらえる場合のみ検討する。今のところは、人間生活の方が菓子を食べられるので、ペット生活は却下だ。

 まるで迷路のような清晨の家の庭を出て、見覚えのある玉都の通りに出た時は、安堵のあまり体がとけるようだった。

 住み込みで弟子をさせてもらっている餅屋の二階に戻ってくると人間の姿に戻り、少しだけ休息を取る。

 そして、いつも通り、早朝の厨房に出勤した。

 椅子に座ってうたた寝していた若い男が顔を上げ、珠珠を見る。


「おや? 昨日帰ってこなかったから、逃げ出したのかと思ったよ、子豚ちゃん」

「酷い待遇だと自覚あるんですね、英林えいりんさん」


 子豚と呼ばれた珠珠は、仏頂面で男を見上げる。

 人間の姿の珠珠は、太り気味の冴えない下女だ。とても貧しい上にみすぼらしい容姿で、軍師様の近くにいるような人間ではない。

 珠珠は孤児で、外国の血が入っているため、この国では珍しい栗色の髪と瞳をしている。親に捨てられ彷徨ほうこうしていたところを、餅屋の店主と偶然出会い、住み込みで働かせてもらえることになった。

 以来、商品の餅菓子を作るのは、店主の息子である英林と、形ばかりの弟子である珠珠の役目だ。


「養われてる自覚あるのかい、子豚ちゃん。不細工なせいで嫁に行き遅れ、料理の手伝い以外何もできないお前を、親切にも置いてやってるんだ。気に入らないなら出ていっていいんだよ」

「じゃあ出ていきます」

「待てよ。出ていっていいと言ってない」


 回れ右しようとすると、英林は慌てて止めてくる。


「中秋節に、糕点師こうてんしの試験があるんだよ。お前には新作を用意してもらう」


 英林は、今回も自分の作だと言って、珠珠の作品を出すつもりだ。

 菓子作り以外、これといって取り柄のない珠珠が、餅屋の二階で悠々と暮らせるのは、英林の影として働いているからである。

 この国で菓子作りの職人は、糕点師と呼ばれる。

 昔から雨龍の心を鎮めるため花餅作りの伝統があり、この国では菓子作りが盛んだ。糕点師には格付けがあり、年に数回の品評会などで功績が認められると、昇級する。

 英林は二級で、次は一級に上がろうと息巻いていた。しかし、実際に作っているのは珠珠だ。どこまで世間の目をあざむけるか、珠珠は疑問に思う。初級や六級あたりならまだしも、一級ともなれば熟練の職人の世界だ。珠珠の力でのしあがった英林が、そこでやっていけるかどうか。いや、珠珠が心配することではない。


「気が乗らないって顔だな」


 英林は、珠珠の顔を見て舌打ちした。


「今回の勝負は、特別に雨龍皇太子が品評するって噂だぞ。お前、いつか自分の作った菓子を雨龍陛下に食べてもらいたいんじゃなかったか」

「!」


 まだ無邪気だった頃の戯言たわごとを覚えている英林が憎らしい。しかし、心揺さぶられるものを感じ、珠珠は困ってしまった。


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