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第22話

 清書された契約書二枚を持って、珠珠はふわふわ夢見心地で廊下に出た。芸術的な筆跡で書かれた契約書は、単なる事務的な書類を通り越して、何か神聖で特別なものに見える。


「筆、持ってないならあげるよ」


 凛湘りーしゃんが珠珠をのぞきこんで言った。


「珠珠は私物の持ち込みが無いと思ったら、訳ありだったんだね! 大丈夫! 清晨様の周りは、そういうの多いから!」

「軍師様は、よく人を拾われるんですか……?」

「まあまあね。でも当たり外れが激しくて、自分から拾われに来る奴もいる。あの方はモテるから。分かるでしょ」


 超分かる。

 珠珠は、深く頷いた。

 軍師様、大人気だ。


「物は、また増やしていけばいいよ。命には替えられない」


 凛湘は悟った顔で珠珠の肩を叩いた。

 そうだ。珠珠は、英林のところに戻れなくて、身一つで軍師様の屋敷にやって来た。ただでさえ少ない私物を、何一つ持ってくることは出来なかった。

 契約書を手にし、新しい居場所を得たという実感が、じわじわ沸いてくる。


「それにしても、珠珠は糕点師様かあ。掃除をさせて、すまなかったね!」


 暗に下働きの仕事はしなくて良いと言われ、珠珠は首を横に振った。


「いいえ! 凛湘さんさえ良ければ、侍女の仕事も手伝わせて下さい」


 自分に出来ることがあったら、何でもしたい。

 今まで店でこき使われていた珠珠は、やることがない生活に慣れていなかった。


「そう? それは助かるわ!」


 単純な凛湘は、手伝ってくれるならと喜んでくれた。

 それから使用人用の食堂に行って、凛湘から筆や硯箱すずりばこをもらい、自分の名前の書き方を教えてもらった。

 珠珠は全く読み書きが分からない、という訳ではない。幼い頃、母親に連れられて各国を放浪していた時に、母親から簡単な読み書きを習っていた。しかし、筆を持って清書するのは初めてだ。


「字が汚くても、清晨様は気にしないよ」

「でも、こんな綺麗な紙を汚してしまうのは、恐れ多くて」


 ミミズが這ったような自分の字を見て、珠珠は涙目だ。


「う〜ん。私はどっちでも良いけど、あんたが納得いかないなら、納得いくまで練習すればいいよ!」


 凛湘の返事は脳筋だった。

 まるで走り込み百回!と言っているような雰囲気だ。

 今日明日で綺麗な字が書けると思えないが、もう少し頑張ってみようと思った珠珠は、自室で字の練習することにした。


「少し良いですか?」


 硯箱すずりばこと契約書を持って、部屋に入ろうとした直前、仲達に声を掛けられる。

 仲達は外にいる時は軍服だが、屋敷にいる時、家宰のような事をしているらしく、雑務をしやすい作業着だ。

 彼は小脇に抱えた半紙のたばを、珠珠に向かって差し出した。


「字の練習をするんでしょう。持っていきなさい」

「い、いいんですか。紙って高級品ですよね」

「庶民にとって高級品かもしれませんが、我らが軍師様にとっては、こんな書き損じ塵箱ごみばこに入れる前のごみに過ぎません。有効活用しても誰も文句を言わないですよ」


 紙束を押し付けられ、珠珠は驚きながら受け取った。


「あの、仲達さんは、軍師様に仕えることに誇りを持っているんですね」


 我らが軍師、とぽろりと漏らした仲達の言葉を拾い、珠珠は揶揄やゆのない純粋な目線を彼に向けた。

 仲達は「うっ」と衝撃を受けたようによろめく。


「と、当然でしょう。清晨様は危なっかしいところはありますが、いやそれは俺がサポートすればいい……とても素晴らしい方です!」

「?」

「あの方の直筆の横に、自分の名前を書くのは勇気のいることでしょう。見苦しくない字を書くよう努力しなさい」

「はいっ」


 用事はそれだけだったようで、仲達は紙束を珠珠に渡すと去っていった。

 なんだ、仲達さんも良い人じゃないか。

 初対面の印象から、嫌われているかもしれないと思っていた珠珠は、仲良くできる可能性を見出して嬉しくてニヨニヨした。


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