清書された契約書二枚を持って、珠珠はふわふわ夢見心地で廊下に出た。芸術的な筆跡で書かれた契約書は、単なる事務的な書類を通り越して、何か神聖で特別なものに見える。
「筆、持ってないならあげるよ」
「珠珠は私物の持ち込みが無いと思ったら、訳ありだったんだね! 大丈夫! 清晨様の周りは、そういうの多いから!」
「軍師様は、よく人を拾われるんですか……?」
「まあまあね。でも当たり外れが激しくて、自分から拾われに来る奴もいる。あの方はモテるから。分かるでしょ」
超分かる。
珠珠は、深く頷いた。
軍師様、大人気だ。
「物は、また増やしていけばいいよ。命には替えられない」
凛湘は悟った顔で珠珠の肩を叩いた。
そうだ。珠珠は、英林のところに戻れなくて、身一つで軍師様の屋敷にやって来た。ただでさえ少ない私物を、何一つ持ってくることは出来なかった。
契約書を手にし、新しい居場所を得たという実感が、じわじわ沸いてくる。
「それにしても、珠珠は糕点師様かあ。掃除をさせて、すまなかったね!」
暗に下働きの仕事はしなくて良いと言われ、珠珠は首を横に振った。
「いいえ! 凛湘さんさえ良ければ、侍女の仕事も手伝わせて下さい」
自分に出来ることがあったら、何でもしたい。
今まで店でこき使われていた珠珠は、やることがない生活に慣れていなかった。
「そう? それは助かるわ!」
単純な凛湘は、手伝ってくれるならと喜んでくれた。
それから使用人用の食堂に行って、凛湘から筆や
珠珠は全く読み書きが分からない、という訳ではない。幼い頃、母親に連れられて各国を放浪していた時に、母親から簡単な読み書きを習っていた。しかし、筆を持って清書するのは初めてだ。
「字が汚くても、清晨様は気にしないよ」
「でも、こんな綺麗な紙を汚してしまうのは、恐れ多くて」
ミミズが這ったような自分の字を見て、珠珠は涙目だ。
「う〜ん。私はどっちでも良いけど、あんたが納得いかないなら、納得いくまで練習すればいいよ!」
凛湘の返事は脳筋だった。
まるで走り込み百回!と言っているような雰囲気だ。
今日明日で綺麗な字が書けると思えないが、もう少し頑張ってみようと思った珠珠は、自室で字の練習することにした。
「少し良いですか?」
仲達は外にいる時は軍服だが、屋敷にいる時、家宰のような事をしているらしく、雑務をしやすい作業着だ。
彼は小脇に抱えた半紙の
「字の練習をするんでしょう。持っていきなさい」
「い、いいんですか。紙って高級品ですよね」
「庶民にとって高級品かもしれませんが、我らが軍師様にとっては、こんな書き損じ
紙束を押し付けられ、珠珠は驚きながら受け取った。
「あの、仲達さんは、軍師様に仕えることに誇りを持っているんですね」
我らが軍師、とぽろりと漏らした仲達の言葉を拾い、珠珠は
仲達は「うっ」と衝撃を受けたようによろめく。
「と、当然でしょう。清晨様は危なっかしいところはありますが、いやそれは俺がサポートすればいい……とても素晴らしい方です!」
「?」
「あの方の直筆の横に、自分の名前を書くのは勇気のいることでしょう。見苦しくない字を書くよう努力しなさい」
「はいっ」
用事はそれだけだったようで、仲達は紙束を珠珠に渡すと去っていった。
なんだ、仲達さんも良い人じゃないか。
初対面の印象から、嫌われているかもしれないと思っていた珠珠は、仲良くできる可能性を見出して嬉しくてニヨニヨした。