周囲が薄明るくなるのを待って、ひざ上まで水に浸かって川を渡った。下流に橋はあるのだが、そこを通れば通行税を取られる。
だがそれだけではない。今私が入ったこちら側はaアーゲンオーブ三国連邦のガイア教団領で、武器を持った者は人間だろうがそうでなかろうが厳重に調べられる。
何しろ今の私は商人にも旅人にも見えない。誰がどう見ても、仕事を探しているはぐれの剣士だ。厄介ごとを起すだけの存在だから、ガイア教団としては絶対に領内には入れたくないだろう。
私としても面倒なのでガイア領は通りたくないが、この川を渡るか険しい山を越すかと聞かれたら誰だって川を選ぶだろう。
そんなわけで私は人目を避けて川を渡り、木立の中で軍用長靴をはき直し林の中を歩いた。少し行けばまた川があって、その向こうはメルクリスス領だ。街道に繋がっていそうな小径に出会い、そこを歩き始めてしばらくしてのことだった。こちらに向かって女が走ってきた。
その女は追われてでもいるように背後を気にしながら走ってきて10キュビス(9m)ほど手前でようやく私に気がついたらしい、つんのめるようにして足を止めた。
私を見て肩に引っかけていた半弓を慌てて降ろすそぶりを見せたが、すぐにその手を止めた。そして私を値踏みするような強い視線を向けてきた。
まだ若いと言うより子供に近いようだ。粗末な衣服と丈夫そうなマント、格好は狩猟民に近いがその気配はひどく荒んでいる。私は獣にでも出くわしたような気がしていた。
私が剣の柄に手もかけずにただ見返していると、女は一度後ろを振り返ってから木立の中に飛び込んで姿を消した。
それとほぼ同時に数人の足音が迫ってきた。男が三人、やはり私の姿を見て立ちすくんだ。先頭にいる一人はガイア教団の僧兵であることを示す赤い縦長の帽子を被っていたが、あとの二人は良いところ盗賊崩れだ。
「おいお前!」
尊大な口調で僧兵が言った。
「女をどこへ隠した!」
実に気に入らない奴だった。
「礼儀を知らん奴だ、人にものを尋ねる言葉も知らんのか」
僧兵が怒りで顔を赤くした。
「お前、この帽子が目に入らないのか! 教団を愚弄するのか!」
「俺はガイアの信徒ではない、カバラール傭兵隊のベイルファーって者だ。従ってお前が何であろうが関係ない」
「何だとぉ!」
教団領有の農園かどこかで、毎日農奴や用人を怒鳴り付けているのだろう。自分に従わない相手に出会ったことがないに違いない。
僧兵が抜いた、柄が長く刀身が反った独特な剣だ。遣える奴があれで打ち下ろしてくると恐ろしい威力がある。だがそいつの構え方を見れば、剣の心得などほとんどないことが判った。
「カバラール傭兵として警告する。脅しであっても、剣を抜けば敵対行為と見なす」
傭兵隊規則その9だ。『非戦闘地帯で敵対行為に合った場合には、剣を抜く前に警告を発すること』
それから、つい余計なことを言ってしまった。
「素人剣術は危ないだけだ」
その一言でそいつの顔がどす黒くなった。奇怪な声を上げて斬りつけてくる。
速さだけはある打ち込みだったが、やはり剣筋はひどいものだった。柄の握りが強すぎるのだ。私はそいつの脇を通り抜け、その後ろにいた盗賊崩れを蹴り倒した。
僧兵がこっちに向き直り、また奇妙な叫び声を上げて剣をやたらに振り回しながら迫ってきた。
「馬鹿野郎! 止めろって言ってんだろ!」
さっき私が蹴倒した男が立ち上がろうとして、僧兵が振回している切っ先にかかった。首筋から血を噴き上げて男が崩れ落ちる。
私は一歩退いてから剣を抜き、僧兵の剣に空を切らせた。そしてひと太刀でそいつの肩口から胴の真ん中まで切り下ろした。
盛大な血しぶきを撒き散らして僧兵は倒れ、残った一人は長い悲鳴を曳きながら逃げ去った。
「くそっ!」
私は僧兵の服で剣に付いた血を拭い、呻くように呟やいた。完全に無意味な斬り合いだった。こいつらが死んだところで悲しみにくれる人はいなさそうだが、私だってむやみに人を殺したくはなかった。
腹まで絶ち割ってしまった僧兵の死体は隠せるような状態ではなく、隠したところで逃げた奴が誰かを呼んでくるだろう。今は逃げるしかなかった。
「ねえ、あんた」
そのとき、どこからか声が聞えた。振り返ると藪の中からさっきの女が手招きしていた。
「すぐに加勢が来るよ、逃げよう!」
考えている余裕はなかった。私は女に従って藪へ飛び込んだ。
「もう3日もこの辺動き回ってるから、どの道がどこ通じているか知ってるの」
女が走りながら言った、結構速い。
「そいつはありがたいな。俺はベイルファーだ」
「カバラールの傭兵が、どこ行くつもりだったの?」
「お前、名前は?」
風で衣服の袖がめくれあがり、二の腕が覗いた。そこに紋章のような刺青と、どう見ても装飾品ではない腕輪が見えた。どこかの領主なんかの所有物に付けられる略紋だった。腕輪はおおかた『服従』の呪なんかを含んだ嫌なものだろう。
この女はそこそこの立場と財のある奴の私物、しかも武装しているので戦奴らしい。
「エーハ(数字の8)」
女が無愛想に言った。
「それが名前か?」
女はそれ以上何も言わず走り続けた。街道にある教団の関所を迂回するために山中に入った。そこでようやく足を止めて、持参している食糧を分け合った。私は干し肉と水、エーハは麦と砕いた豆を煎った物だった。
「何で奴らに追われてた?」
私が聞くと、エーハは干し肉を噛みながら上目遣いに私を見た。アーモンドの形をした吊り目は、ガイアでもメルクリウスの人間でもなさそうだった。
「食い物売って貰おうと思ったら、掴まりそうになった」
本当は盗みに入ったのだろうと思ったが、口にはしなかった。
「一人で、こんなところで何をしていた?」
私は革袋の水を一口飲んでエーハに渡した。彼女はそれを受け取りはしたが、戸惑ったような雰囲気で口をつけようとしない。
「どうした?」
エーハはちらりと私に視線を向けて、小さく首を振って皮袋を返そうとする。
「あたし……戦奴隷だよ」
領主なんかが個人的に所有する軍にいる戦奴隷、それに農園で働かされる奴隷は人間扱いされていない。家畜のほうがまだ大切に扱われている。
「それはお前と、お前を使っている奴の間だけのことだ。俺はお前が奴隷だろうが、たとえ人間でなくても気にしない」
私はそう言って革袋をエーハの手に押しつけた。