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第2話

 そんな秋のある日、一人の民俗学者が村を訪れた。

 田中教授と名乗るその男性は、日本各地の古い祠や伝説を研究している学者だった。

 彼は私の祠に強い関心を示し、その歴史について調べ始めた。

「この祠は少し変わっていますね」

 田中教授は村長に話しかけた。

「建築様式からすると、江戸時代中期のものですが、石材の組み方が独特です。まるで何かを封じ込めるような構造になっている」

 村長は困惑した表情を浮かべた。

「封じ込める? 聖なる守り神の祠だと聞いていますが……」

「ええ、表向きはそうでしょうね。しかし、私の経験上、このような構造の祠は、封印の意味を持つことが多いのです」

 田中教授は数日間村に滞在し、詳細な調査を行った。

 彼は古い文書を読み返し、村の古老たちから話を聞き、祠の構造を詳しく調べた。

 そして、ある奇妙な事実に気づいた。

 村の記録には、十年前に一人の男性が忽然と姿を消したという曖昧な記述があった。

 しかし、その男性の名前も、詳細な記録も、なぜか全て消されているか、あるいは読み取れないほど劣化していた。


 田中教授の調査が進むにつれて、村に微妙な変化が現れ始めた。

 最初は些細なことだった。

 夜中に犬が遠吠えするようになり、鳥たちが異常に騒がしくなった。

 祠の周辺の草花が、季節外れに枯れ始めた。

 そして、村人たちは奇妙な夢を見るようになった。

 透明な男性が祠の前に立ち、何かを必死に訴えかけている夢だった。

 しかし、目が覚めるとその内容を思い出すことができないのだ。

 田中教授自身も、調査中に不可解な体験をしていた。

 祠の前で測定器具を使っていると、機械が異常な数値を示すのだった。

 電磁波の乱れ、気温の急激な変化、そして時折、録音機器に人間の声のような音が記録されるのだ。

「まだ……終わって……いない……」

 その声は非常に微かであり、雑音に紛れてほとんど聞き取れなかった。

 しかし、田中教授にはその声が絶望的な警告のように聞こえた。


 ある夜、田中教授は祠の前で、徹夜で観測を行っていた。

 午前三時頃、突然空気が重くなり、祠の石材から微かな光が漏れ始めた。

 その光は脈打つように明滅し、まるで祠の中で何かが呼吸をしているかのようだった。

 恐怖を感じながらも、教授は観測を続けた。

 すると、祠の前に薄い人影が現れた。

 その影は教授の方を向き、口を動かして何かを伝えようとしているように見えた。

 しかし、声は聞こえない。

 影は必死に手を振り、祠を指差し、そして消えた。その瞬間、教授の録音機器に明瞭な声が記録された。

「調査を……やめて……封印が……弱くなる……」


 翌日、田中教授は村の最古老に話を聞きに行った。

 九十歳を超える老女は、教授の質問に困惑しながらも、かすかな記憶を辿った。

「十年前……そうさな、なんか変なことがあったごたような気のするねぇ」

 老女は眉をひそめた。

「誰か、いたはずの人が、おらんごつなったごたいなくなったような……でも、誰だったかよう思い出せんとよ」

「その時期に、村で何か事件はありませんでしたか?」

「事件ね……」

 老女は首を振った。

「いや、でも確か、祠が一度壊れて、それで新しく建て直ったごた……でも、いつの話だったか、よう思い出さんねぇ……」

 田中教授は、記憶の曖昧さは人為的なものではないかと疑い始めた。

 まるで誰かの存在が、意図的に記録と記憶から消去されているのではないか。もしそうだとしたら、何の意図があってそんなことをしているのか。

 その夜、教授は再び祠を訪れた。

 今度は、祠に直接触れてみることにした。

 石に手を置いた瞬間、強烈なビジョンが頭の中に流れ込んできた。

 透明になっていく男性。

 村人たちに無視される恐怖。

 そして、邪悪な存在との最終的な戦い。

 男性が自らの存在を犠牲にして、再び封印を完成させる場面。

「あなたは……」

 教授は呟いた。

「この村を救った人なのですか」

 すると、祠の前に人影が現れた。

 それははっきりと見えた。

 男性であり、悲しげな表情を浮かべていた。

 その霊は口を動かした。

 今度は、教授にもはっきりとその声が聞こえた。

「もう十年になる。封印は私の存在を糧にしている。しかし、あなたの調査で封印が不安定になっている。このままでは……あれが再び解放される」

「あれとは何ですか? 私はどうすればいいのですか?」

 教授は震え声で尋ねた。

「調査をやめよ。そして、この真実を誰にも話さないこと。私の存在が明らかになれば、封印の力が弱まってしまう。村の平和のために……この祠のことは忘れてほしい……」


 田中教授は深刻なジレンマに直面した。

 学者として、この発見を世に公表すべきなのか。

 それとも、村の因習や文化を優先し、真実を隠すべきなのか。


 翌朝、教授は村長に会いに行った。

「調査を中断することにしました」

 教授は静かに告げた。

「この祠は、調査すべきではないものだと分かりました」

 村長は安堵の表情を浮かべた。

「そうですか。実は、あなたが来てから村の雰囲気が少し変わった気がしていたんです。動物たちも落ち着かない様子で……」

 教授は荷物をまとめて村を去る準備をした。

 しかし、最後にもう一度、あの祠を訪れてみた。

「あなたの犠牲を無駄にはしません」

 教授は祠に向かって静かに語りかけた。

「この秘密は私が墓場まで持っていきます」

 微かな風が吹き、まるで感謝の言葉のように聞こえた。


 田中教授は村を去り、その調査記録は全て破棄した。

 公式には「特に興味深い発見はなかった」と報告され、祠は再び平穏な日常の中に埋もれていった。

 しかし、教授だけが知っている真実があった。あの透明な男性は今も祠の中で、邪悪な存在と共に封印されている。

 村の平和を守るために、永遠に。

 時々、祠を訪れる村人たちは、石の表面を撫でる風の音を聞く。

 それは感謝の言葉なのか、それとも孤独な魂の嘆きなのか。誰にも分からない。

 ただ一つ確かなことは、その男性が村を愛し、村のために自分の存在を捧げたということだった。

 そして、その愛が今も村を守り続けているということだった。

 名前も記録も記憶もない英雄の物語は、こうして再び静寂の中に封印された。

 しかし、その崇高な犠牲の意味は、風の音となって永遠に語り継がれていくのかもしれない。




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