少し一人で休みたい、というイリース姫を置いて、てくてく。
お散歩中です。
姫様はマリッジブルーでしょうか。違うのはわかってますけど。いや、合ってるのか?
悩みが整理できてないだけだと思いますので、適当なところで戻りましょう。
ということで、王宮の中庭で時間つぶし。
植樹の木陰に背を預けて、のんびりといたしております。
「……きみは、誰から『与えられた』んだい?」
ふと、横を見ると、女性が座っておられました。
けだるげな、物憂げな美女。
雰囲気のある方ですが、この王宮内にいるということは、身分ある女性でしょうか。
どこかで、そのお顔を見たことがあります。
ですが、どこでそのお顔を目にしたのか、思い出せません。
昔、どこかで見て、最近も何度も見ているような、そんなお顔。
ですが、そのお顔が誰であるのかを、僕は『思い出せません』。
「あなた様は……?」
「誰でもないよ。わらわに『名は無い』。抹消され、忘れられたからね。わらわ自身も覚えていない」
女性は僕をけだるげに見つめ、口元を緩めます。
目元にうっすらと浮かぶ、疲れたクマが艶めかしさを感じさせます。
「メルヒドかい? オルストラかな? それとも……その姉の、オルテナ本人から? 興味深いね……」
ふふ、と笑うその顔は、どこか寂しそうです。
何だろうね。誰だろう。
でも、僕は、浮かんだその名前を言わなければならない気がしました。
誰かに『与えられた』道化として。
「オルトナイ様……?」
僕がその、思い出せない『誰か』の名前を口にした瞬間、物憂げな女性は、驚かれたように目を見開かれました。
そして、薄く笑われます。
妖しく。
「……きみが、どうやって『その名』を知ったのかは、聞かないでおこう。……きみは『その名』が何を示す名前なのか、わかっているのかい?」
頭がぼんやりします。
聞かれても、思い出せません。
「いいえ。わかりません。わかりませんが……何となく、『その名』を呼ばなければいけない気がしました。そう、確かに『在る名』として」
その言葉に、女性は口元を結びます。
うれし泣きのように、目元を細めて、潤ませて。
女性は手を伸ばし、僕の身体を優しく抱きすくめます。
「きみは、愚か者だね」
「ええ。僕は道化師、愚か者ですので」
僕の言葉に、女性は耳元でささやきます。
「ありがとう。『与えられた』愚か者よ。きみの言葉により、確かに『その名』は蘇った。消し去られ、忘れられた名は。誰にすらも忘れられた名、ではなくなった。おめでとう。そして、ありがとう」
そして彼女は、僕から身を離され、長い黒髪をかき上げられながら、名乗られます。
「改めて名乗ろう。わらわの名は『オルトナイ』。素性は乙女の秘密とするが……もう少し、語らっても?」
「かしこまりました、オルトナイ様。ご随意に」
改めて見ると、オルトナイ様はとても不思議な格好をしておられます。
西洋ファンタジー貴族世界風のこの国で、白い肌なのにアラビアンな露出の多い衣装。
髪の色も黒く、薄いクマの奥の黒い瞳も、アイシャドウじみてとても妖艶です。
この設定画、どこかで見たような気がするのですが。
記憶が何かぼやかされているかのように、まるで思い出せません。
でも、王宮にいるんで、危険な人物ではないでしょう。
粗相があると僕の首が飛ぶ危険はありますが、大した問題では無さそうです。
「きみの出自は知っているよ。ずいぶん、子爵家の実家で冷遇されていたそうだね?」
「道化師になる以前の暮らしは忘れました。今の僕は、マクガフィン、というただの宮廷道化師です」
ふぅん、とオルトナイ様は唇に手を当てられます。
「その、『マクガフィン』という単語、この国の辞書にはない言葉だ。何を意味する言葉なんだい? ええと、つまり、きみの今の名の由来は?」
「特に意味はありません。意味は無い、というのがその意味です。由来は、忘れました。何か、『与えられた』ものか何かではないのでしょうか?」
前世の地球の単語だからね。
この世界には存在しないことも、それは大いにあるでしょう。
「なぜ、僕の名の由来なんかを?」
「いや、なんだろうね。わらわの『名前』を呼ばれたことが嬉しくなってしまって、それでお返しに聞いてみたものさ。王宮では有名人だよ、宮廷道化師の『マクガフィン』」
僕は『そこに存在しない者』。だけど、存在しないのに有名人とは、皮肉なものです。
でも、それを知っているということは、やっぱりこの国の、王宮関係者なんですかね。
「予言しようか、マクガフィン。これは、わらわからの祝辞でもあるのだけど」
「何をですか? 祝辞というなら、ありがたく」
オルトナイ様は、優しく微笑まれました。
「マクガフィン。きみは、存在しない者であったとしても、愛されるだろう。『与えられる』ほどに神々に愛されたなら、この世界の者にも愛される、ということだ」
そう、でしょうか。
その割には、生まれの子爵家では良い思い出はありませんでしたけど。
「人は異端を恐れる。異物ゆえに、『いない者』『見えないもの』とすることもある。だが、きみを必要とする者もいる」
「ありがとうございます。そうですね。僕の道化師としての能力は、僕が思うより買われているようです」
ふふ、とオルトナイ様は微笑まれます。
「そんな風に『存在しない者』でいようとするものじゃないよ。……身分上、そうもいかないのは確かだろうけれど。これからきみを、抱きしめる者、抱きしめようとする者を、邪険にするものではないさ」
「……?」
オルトナイ様は、静かに目を伏せられます。
「わらわは、そなたを好ましく思っておるよ。……少なくとも、この国よりは、ずっと」
「この国が、お嫌いですか?」
僕は尋ねます。
僕を好ましく思う、と言うより、この国を嫌悪しているだけの可能性もありますから。
「そうじゃな、嫌いじゃ。憎んでおるし、憎んでおった。わらわもまた名を忘れられ、『いない者』として扱われた身じゃからな。長く……長く、『誰でもない存在』として扱われておった。名を呼ばれたのは、久しぶりじゃよ」
なんだろう。少し、口調が変わっているような。
けれど、そうか。幽閉でもされてたのかもしれないですね。
フェルリア嬢しかり、幽閉されて貴族社会上は『いない者』として扱われることは、よくあることですから。
貴族社会にこそ、村八分はあるのですよ。上流階級なだけで、人数比では国民内で少ない立場で独自の文化を持つという、いわゆる、高貴なだけの『村社会』ですからね。
僕は、失礼ながら、オルトナイ様に抱きつきました。
「なぜ、抱擁する、道化師?」
「抱きしめる者、抱きしめようとする者、を邪険にするものではない。……そう、貴女様がおっしゃったので」
その言葉が出るほどに、優しい方なのでしょう。
であるならば。
「であるならば、僭越ながら……貴女様も、誰かに抱きしめられるべき存在では、ありませんか? オルトナイ様」
それを真に望んでいるのは、オルトナイ様ではありませんか?
「わらわに優しくするものではないよ。……泣いてしまう」
「どうぞ。僕は『存在しない者』です。貴女様の泣き顔を見る者は、ここにはおりません。何も、恥など、どこにもございません。どうぞ、お構いなされずに」
いいや。とオルトナイ様は、つぶやかれました。
「きみは確かに『存在する』よ、道化師マクガフィン。なぜならば……こんなにも、人の肌が、あたたかい」
そうですか。
もしそうであれば。
それは、とても嬉しいことですね。
オルトナイ様は、僕の身体をそっと離し、そして立ち上がられました。
「また会おう、道化師マクガフィン。……今度は『夜』になるだろうけれど、ね」
そう言って微笑まれながら立ち去るオルトナイ様。
なんでしょう、そんなにみんなして、人の寝込みを襲うのはやめてください。