「神々の争い……」
ガルド様が、慄きながらつぶやかれました。
僕らの目の前、この執務室の中では、今。
獣神オルストラ様と、悪しき女神こと混沌神オルトナイ様が、対峙されてらっしゃいます。
「賢王オルベリス。こちらへ」
獣神オルストラ様の声かけに応じ、うずくまっていたティアマト侍女長は、その身体を動かして、よろめきながらガルド様たちの側へと移動します。
と、同時に、ティアマト侍女長の苦悶の表情が、かなり和らがれたようです。
獣神オルストラ様のお力によって、女神の『呪い』の力が緩和されているのでしょうか。
「姉様、いえ混沌神オルトナイ! なぜ、そうまでこの国を恨みますか!」
「我が妹、獣神オルストラ。それはもちろん、わらわをないがしろにしたからさ。わらわのことを忘れ、オルテナ信仰を至上とするのは良い。誰への信仰も自由だ。――だが」
にぃ、とオルトナイ様は、けだるげに、しかし凄絶な笑みを浮かべられます。
「だが――オルテナを『始まりの女神』と教え、広めることを推し進めたのは、この国だろう。事実と違う正史を造り、意図せずとも、わらわを『いなかった』ことにしようとした。それは許せぬ」
「それは……! 姉様、が……御名を、忘れられ、て、いた……から……」
次第に弁明の語気が弱くなり、獣神オルストラ様は、うつむかれました。
信仰の享受をほしいままにする主神オルテナと獣神オルストラの、二人の妹。
対してオルトナイ様の御名は、忘れられたまま。
妹二人だけが、もてはやされ、自分はいなかったことにされていく。
オルトナイ様の御名が忘れられた、そのきっかけは、この国が最初ではないのでしょう。
たぶん、この世界の長い歴史のどこかで、彼女の御名は忘れられたはずです。
いつしか、それが『当たり前』になったことで、彼女の名は人々の歴史から抹消された。
すべては僕の推測なのですが。
そういう、ことなのかもしれませんね。
「うしろめたくは、ありますか。獣神、オルストラ様」
僕の言葉に、オルストラ様がうつむかれたまま、息を呑んで目を見開かれます。
主神ではなくとも獣の神として、彼女もまたこの国に祀られた存在。
祀られた者が、祀られなかった姉妹を前に、何を言えることがあろうというのか。
そんな、お気持ちなんでしょうね。
「姉である混沌神に寄り添えなかったことを、悔やまれますか。獣神様」
「道化! 貴様、悪神に与するか!」
ティアマト侍女長のお怒りが飛びます。
ですが、それは間違いです。
「お言葉ながら、我が王よ。僕は道化師ですので。我が言葉は誰にも聞き入れられず、我が言葉は誰にも遮られず。……ただ、僕は『おどける』のみです」
「こんなときまでか!」
「はい、そうです」
僕は道化師。この場に存在しない? 誰にも聞き入れられない?
そんなことはどうでもいいのです。
大事なことは、
僕には、自らの思うままに何を言ってもいい『自由』がある。
「お怒り下さい。お責め下さい。この首を切るのも良いでしょう。……でも、僕は誰の味方でもなく。僕の言葉を口にいたします。『おどける』のが宮廷道化師たる、この愚か者の証左であれば」
僕は、こうべを垂れて一礼し、静かに言いました。
「悪と断じられ、この首だけとなっても。僕は、愚かなる者として『おどけ』ましょう」
その言葉に、場が静まりかえりました。
誰もが目を剥いて、僕を見つめています。
ティアマト侍女長こと我が王、オルベリス陛下は、硬く目を閉じられました。
そして、何かを悟られたかのように、大きく息を吐かれます。
一言、我が王は、僕に向けておっしゃいました。
「――大義だ、道化。天晴れである」
「ありがたきお言葉です、我が王よ」
ガルド元騎士団長も、同じく息を吐かれ、気を緩められました。
「熱く、なりすぎましたか。我々は」
「そうだな、ガルドよ。頭は冷やすべきだ。頭に血が上っては、『知』は失われるものだ」
事態は何も解決していません。何一つ。
好転もしていません。
ですが、争うばかりを考えているのでは、この事態は何も解決しようがありません。
人の力で争おうとも、相手は女神、『神様』なのですから。
人の力では及びません。
力で解決しなければ、何で解決するべきか? 人は力以外に何を持ち得るのか?
そんなものは、決まっています。
獣神オルストラ様が、視線を強めて、そして訴えられます。
「オルトナイ姉様。この国を、王たちを憎み呪うことを、止められませんか?」
「止められない。この国は、この上ない大罪を犯し続けてきた。それは、今もなお」
ダメですか。それはまぁ、オルトナイ様の立場になれば、そうでしょう。
と僕や、おそらく僕以外の誰もがそう思った矢先。
オルトナイ様は、意外なことを口にされました。
「そう思っていたけれどね。もうこれより先、呪う気持ちは、特にない」
「……はい?」
獣神オルストラ様は、ぽかんと口を開けられました。
戸惑いながらも、実の姉に尋ねられます。
「そ、それならば、姉様と争う理由はございませんが……な、なぜ? 何か、この国が善行を成したのですか?」
確かに? 特に何も起こっていないはずですが。
心変わりをされたというなら、気が晴れたか何かの理由があるのが普通なわけで。
「もしや……失踪したという、司祭長が、何かを?」
「司祭長? 誰だ? わらわは知らないが」
ガルド様の予想を、オルトナイ様が否定されます。
違うんですか。
別に、そうだったとしてもつじつまは合いそうだったんですけど。
「で、ではなぜでしょう? オルトナイ姉様?」
獣神オルストラ様の混乱した質問に、オルトナイ様は答えられました。
目元に薄いクマのできた、けだるげな顔で、しかし、晴れ晴れとした笑顔で。
「うむ。わらわは恋をした。ゆえにだ」
誰もが。
執務室内の誰もが、言葉を失いました。
猫の姿のアゼル様でさえ、瞳に「?」が浮かんでいそうなご様子で、放心しておられます。
オルトナイ様は、ゆっくりと、しかし上機嫌なご様子で、おっしゃいました。
「ゆえに、この国を赦そう。もう呪いはしないさ」
「そ、それは……? おめでとう、ございます? え? 恋? 姉様が?」
獣神オルストラ様は、とても困惑しているご様子。
悪神の横暴を止めに来たはずなのに、実姉の恋バナを聞かされる事態に。
確かに、何を言ってるのかわかりません。
当事者の獣神オルストラ様も、自分が何を言われてるのか、まるでおわかりではないでしょう。
わからないよね? 僕もよくわからないもの。
何だこの状況。