部活の練習中、男子コート側でハルが倒れた。
でも心配する必要はなくて単なる――
「悪いな、秋月。バカの面倒を任せて」
「気にしないで。このバカの尻拭いには慣れてるもの」
「……本当、毎度ながらなんてタイミングの悪い男なんだ」
神宮寺君が眼鏡を押し上げて、私に背負われた状態のハルの顔を見る。
今、ハルは私の背中で間抜け面を晒していた。
間抜け面を晒した状態で眠りについていた。
体が限界の限界を迎えた時、ハルは突然倒れて眠りにつく。
せめてもの防衛本能だと私は解釈してる。
「一応忠告はしたつもりだったが、逆にそれでさらにハードなメニューを課したらしい」
「気にしないで。どうせいつも通り、このバカが突っ走り過ぎただけなんだから」
背中に感じるハルの体はとても小さかった。
私よりも明らかに軽くて、それなのに私たちの世代では最強のバスケットマン。
そのことを考えると、すごく不思議な気分になってくる。
「じゃあ悪いが、俺はまだ練習があるからあとは任せたぞ」
「ごめんなさいね。いつもウチのハルが心配や迷惑をかけて」
「気にするな。もう慣れた」
去り際に、神宮寺君が私とハルヘ軽く手を振る。
もしもハルが起きていたら、神宮寺君に悪態の一つでも口にしたんでしょうね。
「さてと。私たちも帰るとしましょうか」
私は静かに歩き出す。
背中で眠る小さなエースを起こさないように。
***
「ごめんね、フーちゃん。ウチのバカ息子がまた迷惑を掛けて」
ハルを無事に家まで送り届けた後。
私は叔母さんに招かれて、冷たい麦茶を頂いていた。
ダイニングでお茶を飲む私とは対照的に、ハルはリビングの方へ無造作に転がされている。いつもながら、この家の中だとハルの扱いは結構ぞんざいな方だ。たぶん、ロウの方が家の中の序列的には上のような気がする。現に今、寝ているハルの背中で寝ているし。
「あの子ってば。昔からぶっ倒れるまでやらないと気が済まないからね」
「叔母さん的にはどう思ってるんですか。ハルがバスケをやることについて」
私はよく冷えた麦茶の入ったグラス。その結露を軽く指で拭いながら、こちらに背を向けて夕飯を作っている叔母さんに尋ねてみた。私も何度かハルが電池切れで倒れる場面は見てきたけど、家族ともなればその頻度は一度や二度じゃない。時々見る私ですら、ただ電池切れになっただけ。そのことを理解していても、一瞬だけ心臓が止まりそうになる。ならそれを見てきた叔母さんはどう思ってるのか。そのことがすごく気になった。
「アタシ的にはね。この子がバスケで成功しようが、しまいがどうでもいいのさ」
「でもハル……プロの世界に行きたいって……この前、確かに私にそう言ったんです」
「ハハハ。そりゃあウチのバカ息子も思い切ったことを言ったもんだね」
「……やっぱり、叔母さんから見ても不可能だと思いますか?」
「フーちゃん。アンタにいいことを教えてあげる」
私の問いかけにお玉を持って叔母さんが振り返る。
お玉は私の眼前ヘ突き出されて、叔母さんの目は私の顔を真っ直ぐに捉えていた。
「この世にね、不可能なんてないのさ。できることを可能と証明するのは簡単。だけどね、不可能を不可能だって証明することは誰にもできない。だから身長120センチ以下のプロバスケット選手も、誕生すれば不可能じゃなくて可能になるのさ。だから不可能なんて言葉は簡単に使うもんじゃないよ。このバカなんていつも、どうすれば不可能を可能にできるのか。そればかりを考えてバスケをやってるんだからね」
言い切った叔母さんがお玉を下げる。
私は少しだけハルの理解者として自惚れていたと思った。
私も神宮寺君も確かにハルのことを深く理解している。
だけど私たちの理解はまだまだ甘いのかもしれない。
少なくても叔母さんには二人揃って負けている。
そう思えてしまうほど、叔母さんのハルに対する認識は正しかった。
それにそれはハルが好みそうな理論で。ハルのバスケ人生はいつも逆境との闘いだったから。
「まあただ一つ、この子に謝りたいことがあるとしたら。アタシや旦那みたいに大きな子に産んであげられなかったことぐらいだね。その分、この子には大きなハンデを背負わせることになってるしね」
バスケットボールは高さが物を言うスポーツだ。
それはバスケをやる人間なら共通の認識。
私だってその考えは常に持ち続けている。
ただ一人の例外を除いて。
「……謝る必要はないと思いますよ」
不思議と声が漏れていた。
まだハルに対する理解力が足りない。そう自覚したばかりのはずなのに。
不思議と、ハルならこう言うはずだって思ったから。
「たぶん体が大きかったら、ハルのここまでの成長はなかったはずです。小さいからこそガムシャラに練習をして、小さいからこそ誰よりも努力をして、小さいからこそ誰よりも強くありたいと願ってる。だからハルはバスケット選手として単純に強いんです。なので謝らないであげてください。小さい体にコンプレックスはあっても、ハルなりの誇りはあると思いますから」
私はそっと立ち上がりリビングへと赴く。
するとロウが静かにハルの背中から降りて、私の足元へ擦りよって来た。
私は優しくロウの頭を撫で、反対の手ではハルの少しトゲトゲした黒い頭を撫でる。
「昔から小さいことは嘆いても、一度も叔母さんへの恨み言を口にしたことはないんですよ。むしろあの日、自分にバスケを見せてくれた叔母さんに感謝してるって言ってました。まあハルのことですし、きっと叔母さんには何も言っていないんですよね。こいつ、昔から素直じゃないですから」
ハルは昔から言うべきことを口にしない。
他の人には口にするのに、言うべき相手には本当に何も言わない。
そういうところが本当に面倒くさくて、何となくいいかなと思えちゃう。
だから自然とハルの周りには人が集まって来る。
きっと私もそんなバカに惹かれた中の一人で。そんなバカに恋をした一人。
「フーちゃんの方がよっぽど、アタシら夫婦よりもそのバカの保護者らしいね」
「ハルと一緒に居る時間は、誰よりも長い自信がありますから」
「流石、ハルのことが好きなだけはあるね」
「……え」
叔母さんの言葉にロウとハルを撫でる私の手が止まる。
ぎこちなく見たキッチンの叔母さんは既に、私に対して背を向けていた。
……い、今のって私の幻聴?
それとも本当に言われた言葉?
どっちなの⁉
「そうだ!」
私が顔を熱くしながら、グルグルと今の出来事を思い返していた時だった。
叔母さんが再度、私たちの方へ体を向けてくる。
それもいいことを思いついた。そういう感じの表情で。
「フーちゃんからその子に教えてあげてくれない。ウチの旦那が未だに練習試合への参加を拒否し続けてる理由を。あいつもあいつでいつも言葉足らずだからね。本当に困った親子だよ。変なところばかり似てさ」
それから叔母さんは意気揚々と話してくれた。
叔父さんが未だに、永玲との練習試合。
そこにハルを出場させない理由を。
確かに今のハルを見ていると、その可能性は否定しづらくて。
でも叔母さんは最後に。
「そんなの監督としてじゃなくて親のエゴだよね。全く何が『俺は公私混同しない主義だ』だよ。しまくりじゃないか。というわけで、ハルからあいつにガツンと言うように仕組んでくれない? それだけで簡単に試合には出してもらえるはずだからさ」
「で、でも。もしも叔父さんの言う通りになったら――」
「その時は所詮、ウチのバカ息子の情熱はその程度。まあ人生、バスケだけじゃないからね。旦那の言う通りになったとしても、別に世界が終わるわけでもないから心配することはないさね」
叔母さんはガスコンロの火を止めて、コップに入った麦茶を飲んでから呟いた。
「ただハルがバスケをやめるだけ。それだけの話でしかないんだからさ」