フィオと出会っておよそ十時間以上が経ち、なんやかんやとしているうちに。窓の外は完全な真っ暗闇となっていた。
この異世界で迎える、初めての夜。
前の世界で俺の一人暮らししていたアパートはすぐ近くにコンビニや二十四時間営業のファミレスなんかがあったので、夜でも灯りが多く割と明るかったのだが。
この家の周りには、何も無い。
あるのは数多くの木々だけであり、そのせいで日が落ちてしまうと本当に何も見えない。ただただ、吸い込まれてしまいそうなほどの闇が広がっているのみだ。
「……怖っ」
そんな光景を前に、俺は思わず小窓のカーテンを閉めて。無意識に言葉を漏らしていた。
「ふふっ、懐かしいです。私も住み始めた頃は怖くて、夜に窓の外は見れませんでした」
「住み始めた頃は……って。今は?」
「今はもうすっかり慣れちゃいましたね。一人暮らしをしているうちに段々と」
「マジか。お前意外と怖いのとか平気なタイプか?」
「うーん、そうですねぇ……」
飄々と言うので、気になって。問いかける。
するとフィオは少し考え込むようにして、やがてすぐに
「なんというかこう、言いづらいんですが」
「?」
「こ、この世ならざる者に陵辱の限りを尽くされる、なんて妄想にハマってしまった時期がありまして。多分、そのせいで気にならなくなったのかと」
そう、吐露したのだった。
「……あ、そう」
聞いておいてなんだが。
ーーーーなんだそれは。
ド変態妄想でホラー克服とか聞いたことないぞ。こ、この世ならざる者に陵辱て。
なんか、怖がっていた俺が馬鹿みたいだ。
恥ずかしい話、俺が一人暮らししていた頃はテレビでちょっと怖い番組や映画のCMが流れてきただけで身体をびくつかせてしまっていたし、そもそも何も無かったとしても。「電気を付けたらそこに誰かいるんじゃないか」とか、「鏡に変なものが映るんじゃないか」とか。そうやって、定期的に怖さに身を震わせる夜があったものだ。
だがきっと、フィオの場合はそれら全てが卑猥な妄想へと繋がり、怖さどころか性的な興奮によるムラつきに花を咲かせていたということだろう。
……いや、多分俺の方が普通だなこれ。コイツが異常なだけだわ。
よくよく考えて心の中で自分を慰めていると、
「そういうカイト様は、食糧庫に降りた時も怖そうに周りをキョロキョロされてましたよね。怖いの、苦手なんですか?」
「へっ!?」
ドキッ。
急に図星を突かれ、心臓が跳ねる。
きっと、よほど分かりやすく動揺が表に漏れ出ていたのだろう。
そんな俺を見るフィオの顔は……ニヤついていた。
「なるほどぉ……」
「ま、まだ何も言ってないだろ」
「えへへ、顔が物語っていますよ。私にはお見通しです」
「ぬぐっ……」
せめてもの抵抗で言い返してみたのだが。どうやら無意味だったらしい。
顔が、熱を帯びていく。
咄嗟に顔を逸らしたが……フィオはそのムカつく表情のまま身体を伸ばし、覗き込んできて。
「可愛いです、カイト様♡」
「〜〜っ!!」
刹那。耳元で呟かれ、全身に電撃が走る。
「っぐ……っ!」
「あら? なんで逃げるのですか?」
ガタッ、と。思わぬ衝撃に座っていた椅子を倒して。無意識下で立ち上がる。
そして、囁かれた左耳を手のひらで擦るが。
既に体内へと侵入したその衝撃は、そんなことで出ていくはずもなく。
結果的に起こったのは、体内での言葉の反芻だけ。何度も何度もさっきの囁きがリピート再生されて、消えない。
「もしかしてお耳、弱点なんですか?」
「弱て……っ!? ち、違っ!!」
「本当ですかぁ? まあひとまず、もう一度試してみましょう?」
「や、やめっ……来るなぁっ!!」
まるで小悪魔のように豹変したフィオが、甘い息を吐きながら。ジリジリとにじり寄ってくる。
その目は、俺の耳どころかーーーーもはや身体全体をロックオンしているようにすら見えて。
このままでは、下手すれば押し倒される。
そう、確信した。
ーーーーその瞬間だった。
「!?!?」
ジリリリリリリリリリッッーーーーーー。
それはまるで、憂鬱な朝を告げる目覚ましのようでーーーーそれでいて、自然と心拍数を引き上げてくる災害時のアラートのようでーーーーそんな、激しいベルの音。
明らかに尋常じゃないその音源は、どうやら家の奥の方らしい。
「……むぅ。間が悪いですね」
「な、なんだ!?」
音の方に振り向いて。フィオはぴたりと動きを止める。
その口からは、小さくため息が漏れ出ていた。
「おい、なんだよこの音!? 火事か!? 地震か!?」
「違いますよぉ。そんな深刻なことじゃないです」
「いやでも、この感じ……」
「まあ、馴染みが無いと焦るのも分かります。でも本当に安心してもらって大丈夫ですから。だってこの音はーーーー」
轟音鳴り響く中。依然として、フィオの表情は落ち着いている。
俺の記憶の中にあるこれに類似した音は、そのどれもが悪いことを知らせるものばかりで。もしかしたら緊急事態なんじゃないかって、そう。思ったのだけれど。
しかしそれは、元いた世界の記憶。
それに囚われている俺に、フィオは淡々と。音の正体を告げたのだった。
「この音は、お風呂が湧いた音なんですから」