先刻の出来事からしばらく。
外の茂みで用を足してから戻り、諸々の朝の日課を済ませてキッチンへと向かうと。やがて俺の帰りをその場で待っていたらしいフィオの方から、てててっと駆け寄ってきた。
その表情は少し、気まずそうである。
「あっ、カイト様。ごめんなさい、ご迷惑をおかけして。つい暇な時間にムラっと来てしまって……」
「ん」
「く、臭かったですよね。お詫びと言ってはなんですが……そ、そのイライラした気持ち、私にぶつけてくださいませんか? 罵倒でも暴力でもーーーー」
「遠慮しとく」
「っう……♡」
水道で手を洗いながら、軽く彼女の言葉を受け流して。身悶えているのを横目に食材を確認する。
冷蔵庫の中には昨日のうちに食糧庫から出しておいて解凍するために入れていた食材が幾つかと、あとは卵に、昨晩使いきれなかった分の白ご飯がラップで巻かれたものが二つ。
さて。先ほどは朝っぱらから中々の光景を晒してしまったが。
なにもこの一週間、あんなことばかりだったわけじゃない。そりゃあまあ……そういうハプニングも無かったわけじゃないけれど。
ともかく、だ。ここからはスローライフらしい、おしゃれなモーニングルーティーンをお見せするとしよう。
「じゃ、早速始めるぞ」
「じゅるっ……は、はいっ!」
涎を拭いたフィオの前に、使う食材たちを並べていく。
ここで暮らし始めてからのモーニングルーティーン。
まず、俺の場合は八時に起床。カーテンを開けて日光を浴び、洗面台で顔を洗って一度歯を磨く。
そして、用を足して。その次。
「今日のコンセプトはどうしましょう? パンか、それともご飯か」
「今日はご飯がいいな。卵焼きとお味噌汁もあるとありがたい」
「了解です!」
そうーーーーフィオの朝食作りを見守ることである。
俺たちが同棲を決めたあの日の夜、家事の分配をどうするかを決めていたことを覚えているだろうか。
フィオは洗濯と掃除。
俺は料理とその他力仕事全般。
まあ洗濯に関しては以前彼女は俺の下着を涎まみれにした前科があるため、それだけは自分で洗うように変更したのだが……一旦その話は置いておいて。
料理に関してはフィオの方からの強い希望もあり、朝ご飯だけは任せることにしたのである。
昼と夜に俺が作る際にその作り方やコツなどを教え、朝にそれらを踏まえて実践する。この一週間で、元々はただ焼いたり切ったりするだけだった彼女の料理のレパートリーがどんどん増えていった。
包丁の使い方は元々出来ており、苦手だった魚や肉類はあらかじめ俺が血抜きやその他処理を行うことで調理しやすく。あとは足りなかった知識を補ってやるとあら不思議。気づけばあっという間に主婦のような風格が付きつつある。
フィオはとても飲み込みが早い。料理の才能があったのか、はたまた料理そのものを心から楽しんでいるからか。上達していくのが嬉しい反面、俺も負けていられないと競争心に燃える日々であった。
「えっと、こうして……こうしてっ……」
しかし、そんな炎に油を注ぐかのように。その見事な手つきは、みるみるうちに朝ごはんを完成させていく。
ご飯を土鍋で炊き、その傍でだしと醤油を染み込ませた卵焼きを丁寧に形作る。続いて心地のいい音を響かせながら野菜をカットすると、卵焼きの完成とともに別のフライパンで何かを炒め始めた。味噌汁も既に何やらいい匂いを漂わせ始めており、あとは具材を入れるだけの状態だ。
(もう、俺が口を挟む余地は無さそうだな……)
そう思いながらも。それでいて、その後ろ姿を眺め続ける。
いや、眺めるというより。もはや見惚れていたのかもしれない。
だって、ああやって俺のために朝ご飯を作ってくれているフィオの姿は、まるで……
「えへへ。こうしてると、まるでカイト様のお嫁さんになった気分です♡」
「〜〜〜ッ!?」
「えへへへ……♡」
び、びっくりした。
心の中……読まれたのかと思った。
だが、どうやらそういうわけではないらしく。
彼女もまた、俺と同じように。そんな恥ずかしい妄想に囚われていたに過ぎないのだった。
「ふふっ、もし本当にカイト様とそういう仲になれたのなら、なんとお呼びしましょうかね。あなた……? それとも旦那様、でしょうか?」
「ちゃ、茶化すなよ」
「えへへ、すみません」
もし、フィオと″そういう仲″になったら。
ああ、クソッ。そんなのーーーー
(絶対、幸せじゃねぇか……っ!!)
思わず叫びたくなる衝動に駆られながらも。必死にその叫びを胸の内でとどめ、歯を食いしばる。
だって、そんなの。可愛くて、優しくて。おっぱいが大きくて、そのうえ……
脳内で羅列されていく彼女の魅力の数々に、顔がほんのりと熱を帯びていくのを感じた。
このままでは″呑まれる″。本能で察知した俺は、咄嗟に思考を掻き消すよう首を左右に振って、
「そ、それより。そろそろ完成だな。味見してもいいか?」
「ええ、もちろんです。ちょっと待っていてくださいね」
話を振り、話題を変える。
するとフィオは頷き、キッチン下の引き出しから小さめの木製スプーン、それと食器棚から小皿を一つ取り出し、そこに出来立て熱々の味噌汁を具材ごと少量、注ぐ。
鼻腔をくすぐったのは、まるで日本にいた時を思い出させるかのような和の香り。小皿を覗くと、具材のワカメ、豆腐、お揚げに至るまでも。そのどれもが汁を吸っててらてらと光り輝いており、まるで料亭で出されるかのような美しさを放っていた。
「ありがとう。じゃ、早速ーーーー」
「あっ、まだですよ。そのまま飲んでは舌を火傷してしまいます」
「? ああ、まあ。確かに?」
小皿を受け取り、そのまま味見へと移ろうとしたのだが。
フィオはそれを静止し、小皿を持つ手を引っ込めた。
確かに味噌汁は出来立てで、すぐに舌に触れさせてしまえば火傷必至ではあるが……。
「でも別に大丈夫だぞ、ちょっとくらい」
「ダメです。これから火傷されると分かっていてお渡しはできませんっ」
「むっ。ならどうするんだよ? 冷めるまでなんて待ってられないぞ……」
こんなにいい匂いに当てられて、腹を空かせるなという方が無理な話だ。
もとより俺は朝が弱くて朝ご飯を抜くことも少ない生活を送ってはいたけれど、かと言って目の前にこんなに美味しそうなものを置かれてはな。もう既に身体は朝ご飯を食べるための準備を始めており、いつ腹の虫が騒ぎ出してもおかしくない状況だ。
そんな俺を諭すように。フィオは言う。
「別に冷めるまで待てだなんて言うつもりはありませんよ。ただ、最後の仕上げをさせてほしいだけです」
「最後の、仕上げ……?」
「ええ。こうするんです♡」
そして笑みを浮かべると、スプーンで味噌汁を掬って。
持ち上げ……自分の口元へと近づける。
「ふーっ♡ ふーっ♡」
「っ!?」
こ、コイツ。まさかっ!?
甘い息に当てられ、味噌汁が波紋状に揺れる。
だが決してスプーンから溢れることはなく。高音から適温へとその水温を調節ーーーーまさに最後の仕上げというに相応しい魔法をかけられると、次はそのまま俺の顔へと近づいてきて……
「はい、あ〜んっ♡」