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第2話 村頭の父

 帰路が終わり、玄関を開けると広い土間で草履を脱ぐ、二階からガタガタと物音が聞こえ、黒髪を後ろで低く結び、整った小さな顔立ちをした凛さんが階段を降りてきた。


 凜さんはこの家のお手伝いとして雇われている一人だ。正確な年齢は知らないが、おそらく三十代前半くらいだと思う。


「志郎さんおかえりなさい。お腹はすいてないですか?」


 凜さんは我が家では炊事など家事全般を一人でこなしている。志郎の母親は志郎を産んだあとすぐに亡くなった。もともと体が弱かったと聞いている。


「ええーっと、祭りの屋台で食べてきたから大丈夫です」


 よそよそしく答える自分に腹が立つ。凜さんは自分がまだ赤ん坊のころ家にお手伝いとして働いている。歳を重ねるごとに綺麗になったのか綺麗にみえるのか。やけに緊張してしまう。


「旦那様はまだお帰りにならないですか?」

「え、あ、なんか挨拶周りしてから帰るっていってたよ」


 言葉のはじめはごにょごにょっとしたが語尾はこの家の跡継ぎとして立場相応に言えた。気づかれないように拳をぐっと握りしめた。


「そうですか。いいです。では私はもう家に戻るので、旦那様が帰られたらお伝えください」


(ん?なんか急に機嫌が悪くなった?)


 凛さんは志郎の葛藤とは裏腹に言葉の語尾になどまったく気にもせず、志郎の家よりさらに中心地から離れた自身の実家へ帰っていった。


 凜さんはまだ結婚していない。あの容姿ならすぐにでも話が来そうなものなのに……。


 一人になった家は静寂が広がっていた。二階にあてがわれた4畳ほどの自分の部屋で学び舎の宿題を始めた。宿題といっても勉学が取り柄の志郎にとってはなんてことないものだ。




 宿題も終わり、暇を持てあました志郎は一階の広々とした畳の上に仰向けに寝転がり、扇子を手に取りながら天井をぼんやりと眺めていた。居間の机の上には見慣れない書物が置いてあったが、わざと触れないことにした。庭からは時折、風鈴のやさしい音や竹の葉が擦れる音、遠くの鳥のさえずりが聞こえる。窓の紙障子の影には庭の草花や蝉が見え隠れする。


 ガランと玄関の開き戸が開く音がした後、家の中に聞きなじんだ大きい足音が響いた。志郎は急いで座り直し、扇子を畳の上に置いた。


「凜さんはもう帰られたのか?」 


 玄関で草履を脱ぎながら、家中に聞こえるような声で、志郎に尋ねたのは、父親だった。


「一時間前くらいに帰られました」


 居間からいつも通りの声量で答えた。


「志郎そこにいたのか……そうか帰ってしまったのか」


 父親は残念そうな顔で答えた。そして切り替えたように続けて言葉を発した。


「腹が減ったがまぁ良い。挨拶周りに時間がかかってしまってな。薪が足りないから、木材の収穫量を増やしたいって、これ以上無理な話だ。霊峰様の怒りを買うつもりか?という話だ」


 痛むのか胃を抑えながら父親は疲れ切った顔で言う。


「今日は早く寝て、明日凜さんに何か作って貰えばよいのでは?」


 父親の疲れ切った顔を見て志郎は提案をしてみる。


「いやまだ寝れない、まだ書斎でやることが山積みなんだ」


 そういって、二階の書斎に上がろうとした父親がいらない口を開いた。


「宿題以外にも学べ。私がお前ぐらいの時に読んだ資源管理について学べる学問書をそこの机において置いたから。絶対読め。将来お前はやらなきゃならないのだから」


 そんな頼んでもいない言葉と書物を置いて、尻しぼみに足音は二階に上がっていった。父親のことは好きでも嫌いでもない。馬鹿がつくくらい真面目で、几帳面な性格だ。そんな性格のせいで、より疲れているように見える。凄いとは思うけど好きな性格ではなかった。


 村頭の仕事はお祭りの終了の挨拶をするだけではない。想像以上に多い、というか面倒なことが多すぎる。村人の意見を聞いて方針を決定するのはもちろん、村の資源の徴収、分配、 季節ごとに変わる物々交換の物の価値の決定。さらに村内でのいざこざや問題がおきた時も調停役として呼び出される。もちろんそれだけではなくって、昔から広い畑を持っている地主として、我が家の持つ畑で百姓として畑仕事をしている者は多くいる。その面倒も見ないといけない。


 自分が将来、村頭をやらされると考えるだけで胃酸で胃が溶けそうだ。実際に村頭をやっている父は本当に胃が痛いんだろう。


 なりたくないな……何千回も考えたことだ。でもいつかは必ず自分に回ってくる。逃れられないことだとわかっている。どうしようもない自分の人生を考えた時、黒い塵が心の中に溜まっていく気がする。


 それでも村頭の胃を溶かすことと引き換えに、二階建ての家に住めて自分の部屋もあって、お手伝いさんを二人も雇えている。そんな家はこの村にここしかない。村頭の家に生まれたというだけで、春子のように泥にまみれて農業を手伝わされることもない、勉強を強要されるのは面倒だと思うが、それでもぬくぬくと生きている。それを考え始めるといつも、自由と不自由のどちらを拒む、わがままでだらしない奴に自分が思えて嫌になった。


 父親が置いていった書物を手に二階の自分の部屋に上がる。干し終わったばかりであろう、ふかふかの布団を敷いた。書物は枕元においた。布団に入ると心地よさに思わず深い溜息が出た。


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