夜が明け、朝日が部屋に差し込んでくると、志郎はゆっくりと目を開けた。 気づいたら朝になっていた。少し目を閉じるつもりがそのまま寝てしまったようだ。
結局父親から渡された書物は読むことはなかった。学び舎で空いた時間に読もうと提げ物袋に入れておいた。そのあと、半分寝ている頭で部屋の前に畳んで置いてあった真っ青な着物に着替えた。
部屋を出て、ギシギシと階段を鳴らす音で目が覚めてきた 。一階に降りて最初に目に入るのは台所だ。すでに凛さんが朝食の支度をしていた。凜さんは志郎が朝起きると必ず家にいる。夜は実家に戻り、朝早くにこの家に戻って来るのだ。
階段の音で志郎が起きたことに気づいた凜さんは、次々と居間に食事を並べていった。
「旦那様はまだお休みのようなので先に食べてください。今日からまた学び舎が始まりますでしょう」
昨日父親が遅くなると知って、突然機嫌が悪くなったのはなんだったのか、普段通りの優しい微笑みを見せてくれる。
志郎の前に用意された朝食は、白米と味噌汁と漬物 。白米を朝食に出される家はあまりない。
「いただきます」手を合わせたあと、朝の光が少しかかった朝食を口に運んだ。
特に味噌汁が美味しかった。、ワカサギといった淡水魚がほぐされており 、いい出汁がでている。
山の清流で獲れる魚は本当に美味しい。アユやイワナ 、ワカサギしか食べたことはないが、霧と山を越えた先にだってこんな美味しい魚はいないと自分も含め村人全員が思っていることだろう。付け加えると、凜さんは料理が上手だ。
朝食を食べ終えると、きちんと手を合わせた後、食器はそのままに二階から持ってきた提げ物袋をもって、塩水で口をゆすいだ後、玄関で草履をはき、家を出た。もちろん凜さんは玄関まで見送ってくれた。
外はとても暑かった。家の中と、上から直接太陽の熱を浴びるのでは全然違う。一歩外に出ただけで憂鬱な気分になった。
次の一歩を踏み出そうとしたとき、玄関横の前庭から、ひょこっと禿げた頭を光らせた仁さんが現れた。
「ぼっちゃん、学び舎ですかね。今日は暑いですが、気を付けていってらっしゃい」
そういいながら、右手で草帽子を被り直した。仁さんはもう一人のこの家のお手伝いさんだ。玄関の開き戸が空く音を聞いて、庭仕事途中に見送りに出てきてくれたのだろう。
祖父の代からこの家に雇われていると聞いた。主な仕事は庭の手入れや、掃除、ネズミ獲りなどだ。たまに畑の仕事も手伝っているらしい。凜さんとは違って、日が落ちる前には仕事は終わり、母親と暮らす家に帰る。どうやら仁さんの母親は相当の歳だそうで心配らしい。
「仁さんこそ、暑い中、無理しないでね。もうあんまり若くないんだから」
仁さんは六十後半くらいだと思っている。正確な年齢は知らない。そうなると仁さんの母親は何歳だ?
「まだまだ若いですぞ!!、ほら!衰えてなんかいませんわ!」
年齢のわりにしっかりと太さのある腕に力こぶを作って見せてきた。
「はは、わかったよー。それじゃあ行ってくるね」
「いってらっしゃい!ぼっちゃんも勉強頑張ってください」
最後の一言は耳が痛いが、それでも昔から仁さんの事は好きだ。父親が村頭として家にいない間、いろいろ遊んでくれたのは仁さんだった。
仁さんと分かれ、学び舎への向かった。学び舎は、霧祭りが行われた広場の近くに向かう途中の道を外れた場所にある。昨日歩いた道を巻き戻るように歩いていると、木造の家々からは仕事に向かう、大人や、志郎と同い年くらいの子どもが志郎の向かう方向と反対に歩いて行く。各々今日働く場所に向かっているのだ。
子供のほとんどは畑仕事にあてがわれることが多い。田畑が集中している場所は、志郎が今歩いている石畳の道を反対にずっと歩き、志郎の家を通り抜けたずっと先にある。
田畑を持っているような地主は『役人』と呼ばれていて、その役人の家に雇われて働いているのが、志郎とすれ違う短い袴を履き、手袋をはめ、麦わら帽子を被った老若男女の人々だ。
この村の有力者である役人が全員田畑を持った地主というわけではない。職人を取りまとめる家が役人であったり、山の木から薪をつくる家が役人だったりする。それらの役人を取りまとめ、先頭に立つのが村頭だ。
「おーい、そこのぼんぼん。急がないとぼんぼんの集会に遅れるわよ」
聞きなじみのある大きい声が前から近づいてきた。春子は志郎よりもずっと短い袴を履いて、紫色の着物の袖をまくっている。そして自身の顔に合わない大きい麦わら帽子深くかぶってより小顔が際立っていた。春子はこんな感じでいつも突然話しかけてくる。
「ぼんぼんの集会って学び舎のことか?」
「そうよ。ぼんぼんの集会じゃない?役人の子どもしか通わないんだから」
春子のいうとおり、学び舎に通うのは、働き手が足りている家の子どもしか通っていない。
「そんな皮肉を大声で言えるお前って度胸あるよな。役人が近くいるかもしれないだろ」
「本当の事いっているんだから、いいじゃない。農作の大変さも分からない綺麗な手をした奴しかいないでしょ」
こいつは本当にそう思っていて、口に出すことに何も感じていないのだろう。
「僕だって週の何回かは畑仕事を手伝っているよ。それにお前も学び舎通えばいいじゃないか」
最後の言葉はお返しの皮肉だ。
「あんたのは仕事ではなくてお手伝いでしょ!それに私が学び舎に通うのは無理よ。うちは私が働かなきゃ、配給量が減って、食べて行けないんだもん。ていうか分かってていったでしょ!」
目頭に力が入っている。分かりやすく怒っている。それが分かるとじっとしていることはできない。
「ごめん。遅れる。学び舎いかなきゃ、春子も頑張れよ」
一応分かれ言葉は残してわざとらしく走って逃げた。火のついた春子の相手をするのは面倒だ。
「逃げるなー」という声が後ろから聞こえてきたが、振り向かなかった。それでも春子のことは嫌いじゃない。この閉鎖された村で思ったことを口に出せるのは凄いし、勇気があることだと思う。その分、周りから避けられていることも知っている。