そんな時間つぶしも玄関へつながる開き戸が開く音と共に終わった。騒々しい教室に入ってきたのは、学び舎の教師である早川先生だった。
「ごめんねー遅れちゃって」
彼の伸ばした髪は、いつもだらしなく乱れているが、なぜか白髪でもない白銀の色をしていて、顔が良い。
いつも同じような古びた着物を来ているが神秘的に見える髪色と顔がいいおかげか村の女からの人気は高い。そして当たり前のように時間に遅れてくる彼は不真面目な教師の鏡と言える。
そんなことは志郎にとってはどうでもよかった。ここにいる生徒誰一人として、彼の遅刻も風貌にもなんとも思わないであろう。学び舎というのは先ほど春子が言っていたとおり『ぼんぼんの集会所』そのものなのだから。
志郎を含めて勉強を真面目にしようと通っている奴などいないだろう。全員が働き手の足りている家の子どもで、役人の子どもやその親戚の子どもだ。働く必要はないが、遊ばせて置くよりは良いだろうと通わされているに過ぎない。学び舎に通わせられるほど余裕があると周囲に思わせたい親の子もいるのかもしれない。
そんな環境で、一応授業が始まっても、各々が好きなことをして騒がしい空間に変化は見られない。志郎は一応授業は聞いている。他にやりたいこともないし、なにより早川先生は見た目にそぐわず知識量はこの村でも特に優れているから、真面目に聞いていると意外と面白いこともある。周りが騒がしいのは最初はいらだったが、4年もすると慣れる。
授業の内容は、歴史、算術、経済学、兵法が主になる。兵法の授業については必要ないと常々思っている。村で読み書きのできる人間自体少ないし、兵法については霧と山に囲まれ外界と接点のないこの村において一番必要のない授業だと思っている。『鬼』が攻めて来ることも五百年間もなかったのだ。今後もないだろうと考えるのが普通だ。
ただそんな兵法の授業になると途端に真面目になるのが、竜太郎なのだからそれには腹が立つ。
「先生!もし霧と山を越えて鬼が攻めてきたらどう迎えうつが最善ですか?」
後ろの席から竜太郎の声が響き渡る。
「うーん、もし仮に鬼が攻めてきてしまったら、うーん、考えたくないけど皆死んじゃうんじゃないかなー。だってこの村の文化は霧が張る『五百年前』からほとんど変わっていないけど、外の鬼達はより強力になっている可能性がある」
そう早川先生は簡単に答えたが、回答としては絶対良くないと志郎は思った。
(兵法の授業なんてやはり意味がないんじゃないか!)
志郎の心の声が叫んでいた。早川先生は続けて口を開いた。
「それでも、霊峰様が何とかしてくれるまで、一人でも多く生き残る方法は考えられるんじゃないかな。例えば、土豪を積み上げて塀を築くとかね。まあそれにだって準備が必要だけど。武器だってこの村にはほとんど残っていないし、なかなか難しいかもしれないね……はは」
本当笑えるくらいにその通りだ。この村には刀や槍などの武器を新しく作るという技術はとうの昔に忘れられてしまっている。武器を持つ必要がないし。無駄な武力は、いらない争いを生む可能性があるから積極的に技術を捨てていったのだと父親から教えて貰ったことがある。
五百年前に村にあった武器も錆びつき風化し使い物にならない。歴史的資料として数点残しているくらいだろう。
「それでも俺は鍬でも鎌でも持って鬼を切り刻んでやるよ!負けねーよ!!」
竜太郎が意気揚々と声高らかに吠えると、取り巻きのやつらが大げさに盛り上げて竜太郎を気持ちよくさせている。実に滑稽だと志郎は内心笑えていた。
それまで外野で見守っていた志郎が巻き込まれたのは、やはり竜太郎が発端だった。
「俺は、どこかの家とは違って、頭だけよくて村人の顔色ばかり伺う度胸のない家柄でないんでね!」
角っこの気持ち良くなった竜太郎を囲むように座る取り巻きがクスクスと笑っている。こんな挑発はよくあることだ。挑発に乗ったことはない。
大声を出して言い合いしたくない。その点で言えば自分は度胸がないと言える。
なぜ竜太郎がここまで志郎に執着しているかというと長い家同士の確執によるものだ。
霊峰様によって村が霧に包まれた年、志郎の先祖と竜太郎の先祖が新しい村頭の座を争い、志郎の先祖が村頭となった。このことについては村の歴史書にもしっかりと記載されている。
いまでも村頭の父親は、竜太郎の家には手を焼いていると言っていた。竜太郎が志郎に仕掛けてくるようなことを、竜太郎の親も大人なりのやり方ではあるが、似たり寄ったりなことを志郎の父親にもしているのだろう。
こだわっているのは向こうだけなのに、実に面倒臭い親子だ。いつものように無視した。だけどたまにもやっとして、黒い塵が心の中に溜まっていく気がした。
早川先生が口をひらいた。
「鬼が攻めてくることなんて霧がある限りないと思うから大丈夫だよ。それでも知識を受け継いでいくのは大切だと僕は思っているよ。五百年外から鬼がやってきたことはないから使える機会があるかは分からないけどね。まあ霊峰様が危篤でもしない限り大丈夫だよ。おっとこんなこといったらよくないね。はは」
早川先生は自身の失言を笑ってはぐらかした。
(霊峰様が死ぬ?)
志郎は考えたことがなかった。
「霊峰様が亡くなることがあるんですか?」
普段あまり声をあげることがない志郎の声に、周囲は驚いていた。
半ば諦めたような顔つきで早川先生は言葉を連ねた。
「逆に、霊峰様が亡くならないと確証なんてないでしょう?霊峰様に会ったことがある村人は歴史上存在しないのだから。存在しているかも分からない。伝承にすぎないかもしれない。これも失言だね。僕は晴れない霧という不思議な事象は伝承どおり霊峰様の存在している力によるものだと思っているよ。たくさん失言してしまったな。はは」
早川先生お得意の笑ってはぐらかす作戦も今度ばかりは通用しなかった。普段あんなに騒々しい生徒たちが沈黙してしまう珍しい光景だ。
早川先生は生徒を落ち着かせるためか自身を落ち着かせるためか咳払いをした。
「ごめん、ごめん、話がずれてしまったね、授業をつづけるよ」
その後は普段通りおのおのが好きなことを話し、騒々しい授業に戻った。なにごともなく学び舎での授業は三時間ほどで終わった。
授業中も志郎の中には自分の中だけでは終わることがない思考が駆けまわっていた。