突然後頭部に衝撃を受けた。
驚いて後ろを振り返ると。にやついた顔をした龍太郎が竹刀を肩に担いで立っていた。
今は稽古の時間だった。学び舎の敷地内に勉学に使う教室とは別に小さな道場が建てられていて、座学の授業が終わると用がない暇な生徒は道場に居場所を移す。
「なに、ボケッとしてんだ?寝みーのか?」
「あ?」
志郎は後頭部を竹刀で打たれたことにイラっとして龍太郎を睨め付けた。
「あー怖!」
龍太郎と怯える演技をして、周りにいた取り巻き共がクスクスと笑っている。
「なんか用かよ。なんとなくわかるけど」
「それじゃ話は早いじゃんか!俺がお前に稽古つけてやるよ。かかってこい、ほらほら」
本当に嫌だ。剣の腕なんて磨いてもこの村で役に立つことなんてない。志郎は本当なら座学が終わったら帰りたい。でも帰ってもやることはほとんどないし、暇そうにしていると畑の仕事を手伝わされる。畑仕事よりは道場で時間を潰していたほうがマシだ。こんな風に馬鹿に絡まれるとしても。
「なにが、稽古だ。対して剣の腕に差なんてないじゃないか」
これは強がりだ。本当は龍太郎のほうがずっと強い。いままでも何回も戦いを挑まれて受けているが、勝てたといえる回数はほとんどない。
「はん、いうじゃん!そこまでいうなら今日は俺を負かせてみろよ」
龍太郎は、にやりとして勝手に竹刀を構え始めた。しまったと思った。完全に龍太郎の思惑通りになってしまった。
志郎もしょうがなく竹刀を構えた。この村で伝わる剣の流派は一つしかない。それも五百年前に生まれた流派で名前は『孤辰夢想流』。一応代々流派は受け継がれているようで早川先生は免許皆伝だ。それもこんな半分おふざけの道場に通ってるだけで得られる形だけの称号で、役人みたいな裕福な家の出の者は全員持っているように、免許皆伝なんて大袈裟に呼ぶべきものではない。そのため五百年前の流派が正確に伝わっているとはとても思えない。
「始めるぞ!」と龍太郎は元気よく宣言し、志郎に向かって竹刀を振り下ろした。志郎は反射的に竹刀で防ぐ。龍太郎の攻撃は力強く、志郎はその力に圧倒されそうになりながらも辛うじて持ちこたえた。
道場内は生徒たちの声援や笑い声で賑わっていた。彼らにとっては村の有力者なら中でも上から2つに数えられる後継ぎ同士の戦いは退屈な稽古の時間の中でも楽しみなものだった。
龍太郎は続けざまに攻撃を仕掛けてきたが、志郎は何とかそれを避けたり、受け流したりしていた。志郎には剣術の技量はあまりないが、龍太郎に負けるのはとにかく癪に触るから必死だ。
それでも龍太郎の剣の腕は確かに上手く・・・・・・いや、上手いというか力強い。龍太郎の攻撃は緻密で、志郎は徐々に疲れてきた。そのうち、龍太郎の一撃が志郎の防御を突破し、彼の肩に軽く当たった。竹刀は本物の刀と違い、血が出るものではないが、それでも打たれたら痛い。
「続けるぞ」龍太郎は半分勝ち誇ったような顔で言った。志郎は痛みを感じながらも、龍太郎との打ち合いを続けた。二人の勝負が終わる頃には、志郎はぐったりと疲れ果てていた。結果は惨敗。
「はっはー!!よえーよえー」
疲れ果てて倒れている志郎を見下ろするように龍太郎は高らかに笑う。むかつくがそんな元気も残ってなかった。もう一生こいつとは戦わない。
毎回そう思っているのに、結局挑発に乗って剣を構えてしまう。高らかに一人で勝鬨をあげる龍太郎を見るたびに悔しさが滲むのを感じるのが不思議だ。この村で剣の腕が良いとか悪いとか全く関係ないのに。これは自分が負けず嫌いなのか、男だからなのか・・・・・・。
その後早川先生の指導の元、全体での稽古が終わると、生徒たちが帰宅の準備を終え、一斉に道場から出ていくなか、提げ袋を肩に掛けた志郎は早川先生に近づいていった。
志郎の顔をみた早川先生は瞬時に聞かれることを察したようだった。
「君が心配しているのは、霊峰様が亡くなったとき、または霧が霊峰様の力じゃなかった時、なにかが原因で霧が晴れてしまった時、村はどうすればいいか考えているんだね」
「その通りです……」
「その質問に回答をすると、僕たちが生まれるずっと前からこの村は霊峰様を頼りに平和を維持することを選択し行動してきた。村内の争いを避けるため武器も捨て、文化の進化も恐れ良しとしない。霧が晴れてしまった時にはすべてが遅いんだ。なにもできない。さっきも少し言ってしまったけど、山の外から鬼が攻めてきて村は壊滅し多くの村人が死ぬだろうね……。でも流石、村頭の跡継ぎだね。僕の話をそこまで深刻に考えてくれているのは教室で君だけだろうから」
最後の一言は蛇足でしかない。もし自分が村頭にあてがわれていた時、霧が晴れてしまったらと考えると、恐ろしすぎる。村人達は全員が村頭の自分を頼ってくるだろう。けれどなにもできることがないなんて。そして村人に責められながら、死を恐れ鬼が来るのを待つなんてそんなのごめんだ。心を埋めつくす不安が黒い塵みたいになって心に溜まった気がした。
授業後に自分に付き合ってくれた先生に礼を言い、志郎は道場をでた。
一つ残された草履を履く時も、学び舎の門を抜ける間も、志郎の思考は止まらなかった。
先ほどの早川先生の回答について様々な思考が頭を駆け巡っていた。早川先生の考えていることは可能性にすぎない。五百年もの間、霧は村を守ってきたことは事実あるわけで、伝承通り霊峰様は存在するし、これからも永遠に霧を張り続けてくれる。可能性が低いことを考えても仕方がない。無駄な質問をしてしまったと、一旦結論を出しこれ以上深く考えないことにした。
突然、志郎の足が止まった。例の学び舎に続く道と、看板に『狐』と書かれていて、進むと山のふもとに辿り着く道に分かれる場所だ。なぜここで立ち止まってしまったのか自分でも理解できなかった。なぜか『狐』の道に興味を引かれる自分がいた。一度道の先に何もないことを確認した後は、一度もこの道には興味をもつこともなかった。
ただの分かれ道だった。ただこの日は違った。
志郎の目には遠くに見える山のふもとに『黒い渦』が見えた。
心臓の鼓動が激しくなる。この道の先には何もないことが頭では分かっているはずなのに、遠くにある渦に引き込まれるような感覚だった。心が道の先にある何かに共鳴し胸の高鳴りが絶頂に達した時、体を操られるように自然と足の向きが狐の道の方を向いていた。
狐の道に一歩踏み出す時、しゃがれた大きな声が志郎の自我を引き戻した。
「行くな!馬鹿者!!」
聞き覚えのない声だった。ただその声のお陰で志郎は自分がおかしくなっていたことに気づくことができた。
志郎がすばやく振り向くと、しゃがれた声の持ち主が雅ババだと分かった。村で最も長く生きていると噂され、その皺の深さから百歳は越えているように見える。彼女の腰の曲がり具合から、長い年月の農作業がいかに過酷なのか感じ取ることができた。
「聞こえているのか!馬鹿者!!」骨と皮しかなく小さく丸まってしまった雅ババの体から発せられているとはにわかに信じられないほどの怒号だ。
志郎は返事をしなかった。幼い頃、いたずらが親にバレた時の感覚に近い。そう感じた途端、志郎をにらみつける雅ババを置いて無言で走り去ることを選んだ。
先ほどの自分の行動が危険なことだと理由は分からなくとも感じていた。そして、なぜ体が勝手に狐の道に向かおうとしたのか分からなかった。
雅ババの横を走り抜ける時、改めて狐の道の先にある山のふもとを見てみたが、先ほど見えた『黒い渦』は消えていた。
逃げるように、がむしゃらに走った。雅ババが恐いわけではない。あの黒い渦に引き込まれそうになった自分の体が、心が信じられなくなったことが恐いのだ。
木造の家々が並ぶ小路を通り、丘の上に建つ自分のいるべき家を目指して、全力で走り続けた。玄関の開き戸を思い切り開けた時に気づいた。涙が出ていた。
「びっくりしたー」
玄関横で昼飯の準備をしていた凛さんが若干のけぞり驚いた顔でこっちを見ている。
「驚かせてしまってごめんなさい。思ったより勢いよく開いてしまって・・・・・・」
そう答えると同時に素早く涙を拭った。気づかれてやしないか志郎は気掛かりだった。
「志郎さん、お顔が真っ青ですよ。学び舎で何かありましたか?」
本気で心配してくれているのが分かる。濡れた目元については触れてこない。どう答えたものか考えていると少し間が空いてしまった。志郎より先に凛さんが口を開く。
「また、あの家の阿保息子に何か言われたのでしょう。本当面倒な親子だわ」
龍太郎のことだ。十年以上志郎の家でお手伝いとして雇われている凛さんも志郎の家にたびたびちょっかいをかけてくる龍太郎の家がすっかり嫌いになっていた。
「志郎さんは立場もあって言い合いすることもできないのでしょ。旦那様に相談しましょうよ。そうすればあの阿保息子も静かになるでしょ」
凛さんはすっと志郎の顔に近づいて、志郎の頭を優しく撫でてきた。
「大丈夫!自分のことは自分でなんとかするし、気にしてないから!」
そう言いながら、ゆっくりと凛さんの手を頭からどかして、下手な笑顔を作ってみせた。凛さんが志郎にいない母親の代わりをしようと努めていることはなんとなく察する時がある。今がまさにそうだ。ただ凜さんは、年頃の志郎にとってはあまりに綺麗すぎた。
凛さんは少しだけ目を潤ませたように見えたが、すぐに微笑んで言った。
「志郎さんがそう言うなら、きっと大丈夫なのね。私も心配することはないわね。ただ、本当に困ったことがあれば、私でもよければ相談してくださいね」
「ありがとうございます、凛さん」
凛さんの優しさは先ほどまで恐怖で固まっていた志郎の心をほぐした。本来は年相応の子供らしく、先ほど見た黒渦のことや、その黒渦に吸い込まれるように身体が勝手に動いたことを、泣きながら相談してもよいのだろう。けれど、志郎はそうは思わなかった。凛さんや村頭の父親に相談してなにが変わるだろうか。凛はきっと優しく抱きしめてくれるかもしれない。でもきっとそれだけだ。父親はただでさえ村頭としての務めで忙しいのだ。自分のことで負担をかけさせたくない。突拍子もない話に付き合ってすらくれないかもしれない。
「もうすぐで昼飯の準備ができるから、居間で待っててくださいね!憂鬱な時こそ美味しい昼食を食べて元気を取り戻さないとね」
凛さんはそういって台所に戻っていった。
指示を受けた通り、居間の囲炉裏の周りに腰を下ろし、思いに耽ることとなった。
そうして少しばかり待っていると、美味しい匂いが微かな風に流れて鼻に入ってきた。同時に目の前に凛さんの手で食事が並べられていく。手を合わせたあと、食事の匂いに誘われて無我夢中に口に運んだ。考えすぎて壊れそうだった脳が白飯によって修復されていく気分だった。
あっという間に、並べられた皿の中が空っぽになった。喉が乾いたが、茶碗に用意されていた水は呑み切ってしまっていた。そう思うと同時に、凛さんは笑顔で水差しを持ってきて、志郎の前の茶碗に冷たい水を注いでくれた。
「凜さん、ありがとう。凄く美味しかった」
「よかったわ。ちょっと元気になったみたいで私も嬉しいです」
凛さんは微笑みながら、周りの風景に目を向けた。夏の日差しの中、風鈴が涼やかな音色を奏で、その音が心地よく響いていた。窓の外には、蝉たちが熱心に鳴き声を上げ、夏の象徴としてその場を演出していた。