目を覚ました時、外はまだ薄暗かった。夜が深まりきっていない時間なのだろうか。志郎の頭の中はまだ昨夜の出来事と混ざり合っていて、何も考えたくないような気持ちが頭の隅を占めていた。
一階から物音が聞こえた。好奇心に駆られ、そっと起き上がり、自室から階段を降りていく、なぜか嫌な予感がしてできるだけ音を立てないよう気を付けた。
居間から微かな声が聞こえてきた。階段の影から音の方向へ覗くと、囲炉裏の火で赤く照らされた、父親と凛さんが寄り添って志郎に背を向けるように座っているのが見えた。
二人は互いに何かを訴えかけるように語り合っていた。志郎はそっと二人を観察していたが、二人の距離が徐々に縮まっていくのがわかった。
そして、凛さんの唇が父親の唇に重なった。月明かりの中で交わる二人の接吻は、あまりにも静かで、儚げで、それでいて熱情的だった。
見たくない光景を見てしまった。知らない方がずっとよかった。志郎の心は、その場面を目の当たりにして激しく動揺していた。
自分が知っている父親と凛さんとは、これまで想像もしていなかった別の顔を持っていた。
世間体を一番に気にし、志郎に跡継ぎとしての責務を強要する父親と、志郎に一番優しい凜さんがまるで夫婦のようにくっついて離れなかった。
興奮とは全く反対の、でも怒りや悲しみに近いけれどそうでもない、表現しようもない感情が心に溜まっていく。それはやはり黒く変色しすでに志郎の心では収まり切れなくなっていた。
次に目を覚ますと窓の外からは小鳥たちのさえずりが聞こえ、新しい日の始まりを感じさせた。こんなにも目覚めの最悪だった日はない。
今日も学び舎に行かなければならない。ほぼ毎日通う生徒もこの村では片手で数えられるほどしかいない。全員役人の後継ぎで、志郎と同じく仕事を持たない子供だ。
一階に降りるとすでに囲炉裏に朝食の準備がされていた。父親の分はない。すでに家を出たようだった。凛さんの顔は見ることはできなかった。どうしても昨日の情景が頭に浮かんでしまい、いらぬ罪悪感を感じてしまう。朝食は押し込むように胃に入れた。いつもと変わらぬ動作を意識し、流れるように家を出た。最後までまともに凛さんの顔は見れなかった。
丘を降り、木造りの家が立ち並ぶ小路をいつも通り歩いていると、またあのこうるさい声が聞こえた。
「よー!今日もぼんぼん集会?」
「そうだけど、なんか用かよ」
ぶっきらぼうに答えた。この道で春子に話しかけられるのも最近妙に多い。なんとなく今日も居る気がしていた。
「なんだ?ぼんぼん、嫌なことでもあったのか?」
不思議そうな顔で志郎の顔を覗き込んできた。春子の目はまんまるでまつ毛がふさふさと揺れている。なにがいつもと違うのか。春子が妙にするどいことに腹が立った。
「なんもないよ!今は気分が悪いんだ!話しかけんな」
近寄る春子を軽く突き飛ばし、先を急ごうとした。その時春子が衝撃的な言葉をあっけらかんと言い放った。
「お前も私とこの村から逃げるか?」
志郎はその言葉を聞いた瞬間、心臓が止まりかけたと同時に強い怒りが込み上げてきた。志郎は周りに人がいなかったことを確認したのち、春子の泥の色が染み付いた袖を掴んで、家と家の間に強引に連れて行った。
「お前はどんだけ馬鹿なんだ!!阿保!そんな大それたこと村の中で言う奴どこに居るんだよ!誰が聞いてるかもわからないのに!」
志郎は込み上がった怒りを言葉にして春子にぶつけていた。
それでも春子は顔色を一切変えなかった。
「そんな大それたことを言う奴がここにいますけど」
自身を指差しながら口角を上げ大きな目を瞬かせていた。そんな春子をみて少し志郎は冷静になった。
「お前は知らないだろうさ、村を抜け出そうとした人は今まで何人もいたみたいだけど、霧に包まれた山の中に入って行ったきり一人だって帰ってきた人はいないんだ」
「ちがうわ!きっとみんな外の世界が楽しくて帰って来なかっただけよ」急に春子の表情は険しくなった。
「もし仮に山を超えられたとしてもその先には人間の生きられる世界なんてないんだよ。鬼に征服されてしまったんだから!」
「それもぼんぼんの集会所で教わったの??」
春子が鋭く問いかけると、志郎は少し声を強めて言った。
「そうだよ、学び舎にお前は行ったことないから教わったことがないのだろうけれど、早川先生っていう知識のある人が言ってた!」
「その人が言ってることが本当なんて証明できないじゃない。だって誰も山の外を見たことないんだから!みんな騙されてるのよ!この村に残ってる歴史なんて全部嘘なんだわ」
その言葉は志郎に強く憤りを感じさせた。歴史が嘘なんてありえない。何百年と伝えられてきた歴史を嘘だと言い張る春子の考えが理解できなかった。
「もういいさ!お前は一度、山に入って霧の中を彷徨ってみればいいさ!二度と帰ってこれなくなってもしらないよ!」
最高潮に達した感情で声が震えていた。もともと変だと思っていたが、面白いやつだとも思っていた。その実、村一番の阿保だったんじゃないかと思える。
「いいわ!時が来たら出ていくから!」
「時がきたらっていつだよ」
「内緒!でも思っていたよりすぐ来るそうよ!」
春子はそう言い放ち、田畑の集まる地に向かって駆けだしていった。
「何だあいつ……」
小さくなっていく背中にむかって志郎はつぶやいた。春子との会話の後、志郎にあった常識が部分的に欠けてしまった気がした。
志郎はこの村から逃げるという考えを知らなかった。この村に生まれたからには生まれた家に与えられた職につき、同程度の家柄の子どもと結婚し、子どもを作り育てる。そしてこの村で死んでいく。それがこの村に生まれたものが持つ宿命だと思っていた。