村人達が各々の職場に向かう中、志郎も改めて目的地に向かって歩みを戻した。
歩いている間、志郎はいろいろあって忘れていたことを思い出した。昨日は、父親に苦言を言われたり、父親と凛さんと関係を知ってしまったり、すっかり『黒い渦』のことを忘れていた。
『狐』と書かれた看板の前に雅ババが待ち構えている気がして怖くなってきた。
その考えは学び舎へ向かう手前の分かれ道に志郎がたどり着いたときに杞憂だったことが分かった。
雅ババの姿は見えない。その代わりではないが、狐の道の先には、大きな『黒い渦』が見えた。以前よりも大きくなっているように見える。
右側を見れば学び舎が見え、龍太郎達の騒ぎ声がここまで聞こえてくる。その騒々しい声が志郎は学び舎へ行くのを迷わせる。
やがて彼の目線は再び『黒い渦』に固定された。以前と同様に渦の中心からは暗い吸引力が感じられ、まるで彼を引き寄せるようだった。しかしその中に何があるのか分からない。息をのみ、志郎はしばらくその場で立ち止まった。
志郎の胸の中で好奇心と警戒心がせめぎ合っていた。やがて志郎は深呼吸をし、背後からは龍太郎たちの楽しげな声が遠ざかっていくのを感じながら、黒い渦に近づく小道へと足を進めた。
生い茂る草木を掻き分け、しばらく進むと『黒い渦』の目の前にたどり着いた。そして志郎はその先にある未知の領域へと歩みを進めた。
渦の中心に足を踏み入れた瞬間、身体が浮かんでいるような感覚になり、次の瞬間、別の場所に立っていた。
その場所は見覚えがあった。霧で視界が悪く、木々に囲まれた神社。後ろには年期を感じさせる鳥居。一度はこの場所きたことがあると確信を持てる。いつ来たかは覚えていない。けれど神社へ続く石畳にちょこんと座る白銀の狐にそれほど驚いていない自分がいた。
狐の瞳は金色の宝石のように輝いていた。志郎が近づくと、狐はその瞳で彼を静かに見つめ返した。
「そうか、志郎は忘れてしまったのか・・・・・・」
狐が志郎に問いかけた。その声をきいて断片的にこの場所で狐と会話した映像が頭に流れ込んできた。
「夢でここに来たことがあります」
あの不思議な夢を完全に思い出した。そしてより不思議に感じた。今も夢の中なのだろうか。
狐は志郎の心の内を察したのか口をひらく。
「ここは夢の中ではないよ。志郎達が住む村を囲う山の中にある神社だよ。ただ、『黒い渦』を通りここに来られるのは特別な者だけだ」
さらに狐は言葉を続ける。
「さて、ここに来たと言うことは、叶えたい願いが見つかったのかな?」
狐はじっと志郎を見つめた。
「いえ、分かりません」
「分からないのか?」
狐は首を傾げた。
「では、なぜここに来たのだろう」
狐の問いかけに志郎は沈黙して考え込んだ。何かを求めてこの場所に来たような感覚はあった。しかし、それが何かはっきりとはわからない。
「自分でもよくわからないんです。ただ、この場所に引き寄せられるような気がして…ただ、夢の中で会った時とは違います。何かが、何かを欲しているのは自分で分かっています」
志郎は声を落とした。
「夢の中で会った時も話したが、私には志郎の願いが分かっている。だが教える訳にはいかないのだ。志郎が自身で願いを見つけることが志郎にとっても私にとっても重要なのだ」
「なぜ、あなたにとっても重要なのでしょう?」
志郎は問いた。
「人から授かった願いよりも、自身で気づいた願いの方がずっと力が強いからだ」
「力とはなんですか?あなたの目的はなんですか?」
狐の話を聞いている中で好奇心に似た疑問が志郎の内から溢れてくる。
「力とは、志郎の願いを叶えた祭に得られる私への褒美だ。私もただで願いを叶える慈善活動をしているわけではない。できるだけ見返りが欲しいのだ」
「見返り…?」
志郎は眉をひそめた。狐の求めている『力』というのは村でいう仕事をした上で貰える対価なのだろう。それは多分人間である志郎では理解できないものだとその場では理解した。
狐は微笑んで言った。
「私たちは互いに利益を得る関係だ。志郎が真に願うことを見つけ、それを叶えることで、私も力を得る。それが私たちの契約の条件だ。だからこそわたしに遠慮することはない」
「僕はどうしたら自分の願いに気付けるのでしょうか?」
志郎は疑問を投げかけた。
狐はまたも微笑みながら志郎の疑問に答える。
「まずは志郎の事を私に話してくれないか?志郎の生活、家族のこと、友達のこと、志郎の将来のこと。全てを一度私に話してみてほしい」
志郎は少し驚いた様子で狐を見つめたが、その瞳には深い誠実さと優しさが溢れているように感じた。彼は深呼吸をして、話し始めた。
自分が村頭の跡継ぎであること、父親のこと、凛さんのこと、仁さんのこと、春子のこと、学び舎のこと、志郎という人間とそれを取り巻く環境について、できるだけたくさんの情報を狐に向かって話した。
話している途中、涙が溢れてきた。理由が分からない涙。それほど自分の境遇が悲しいものだと思ったことはない。
そんな志郎の話を狐は時折頷きながら、じっくりと耳を傾けて聞いていた。神秘的な狐の目は温かく、まるで心の奥底まで見透かしているかのようだった。志郎の話が一段落した時、狐は優しく微笑んで言った。
「志郎、ありがとう。君の話を聞かせてくれて。君の心には葛藤、自分への期待や不安、全てが君の中で織りなす複雑な絵を描いている」
志郎は目を潤ませながら言った。
「全部あなたに話しました。でも、その中で一体何が私の真の願いなのか、それが分からないんです」
「君という人間について全てを聞けたわけではないよ。たかが三時間ほどの会話じゃぜんぜん足りない」
狐の言葉に志郎は驚いた。
「三時間だって!?」
志郎の体感ではほんの三十分ほどだった。それほど熱心に話してしまっていたのだろうか?
「早く家に戻らなきゃ!!」
早く家に戻らないと凛さんが心配してしまう。なにより、学び舎をサボった事をバレてしまう。
「後ろにある鳥居を潜れば元の場所に戻れるよ」
狐は開かない小さな指で志郎の背後に佇む鳥居を指差した。
志郎は慌てて立ち上がると、狐に向かって深く頭を下げた。
「ありがとうございました。またここにきていいでしょうか?」
「もちろん、いつでも来ていいよ。むしろ・・・・・待ってるよ」
狐が応えると、志郎は鳥居の方向へと走っていった。
志郎が鳥居の前で振り返ると、狐はまだ微笑んでいた。
気付けば山のふもとに志郎は戻っていた。目の前には志郎が草木をかき分けてできた小道が続いている。
日の上り具合を見るにまだ昼時だろう。兎にも角にも急ぐ必要があるには変わりがない。志郎は駆け出した。あの分かれ道を通り過ぎた時に、学び舎からは騒々しい声は聞こえて来なかった。すでに学び舎は終わって生徒達は各々の家に帰っているのだろう。それを自分の目で確認しようとは思わなかった。早川先生が残っている可能性がある。良くも悪くも不真面目な早川先生なら一日くらいサボったところで告げ口するような人ではない事はわかってる。けれどもサボっている時間に何をしていたか問われた場合、どのように説明すればよいかわからなかった。
急ぎ帰路を終え、玄関の開戸を開くと目の前に凛さんが待ち構えるように立っていた。
「どこ寄り道してたんですか!」
普段はぴんと張った眉間に皺が寄っている。
凛さんの顔を見て父親との情熱的な光景が脳裏に浮かぶ。
「ごめんなさい。授業終わりに早川先生に質問したら話が盛りあがってしまって・・・・・・」
咄嗟に嘘をついた。凛さんに嘘をついたのはこれが初めてだった。ちらっと居間にある時計を見ると十三時を過ぎている。普段だったらとっくに昼飯を食べ終わっている時間だ。
「学びのためだったらしょうがないですね。まぁ早川先生は少し変わってますけど、知識人としては有名ですから、お話するのは良い時間だったのでしょう」
でまかせは通用したようで、志郎はひとまず安心した。凛さんの眉間の皺は無くなっていた。
それ以降は畑仕事を手伝ったり、何気ない日常の中に、狐に会いに行く時間を見つけては黒い渦に入っていく『非日常』を楽しんでいた。