夕食後、志郎は自分の部屋に引きこもり、狐の言葉を何度も思い返した。窓から差し込む月明かりだけが部屋を照らしていた。心の中ではさまざまな感情が渦巻いており、志郎は自分の感情と向き合おうとした。
「外の世界に人間がいるって・・・・・・本当に信じられるのだろうか?」と独り言のようにつぶやいた。
部屋の隅には、学び舎で使う歴史書が置かれていた。志郎はその歴史書を手に取りおもむろに開いた。そこには二度と村が鬼に襲われないように霊峰様が霧を張り、村を守ってきたという話が記されていた。狐の言葉とは正反対の内容だった。
「どちらが本当なのだろう・・・・・・」とつぶやきながら、志郎はその歴史書を閉じた。彼は布団に入り、深く息を吸い込んでからゆっくりと吐き出した。志郎には確固たる答えを出すことも、その必要性も分からず、ただ混乱と不安が心を支配していた。
部屋の中に静けさが流れ、志郎の思考だけが響いているように感じた。
なかなか寝付けず目だけ閉じていると、徐々に外が騒がしくなっているのに気づいた。悲鳴と奇声に似た声が飛び交っている。なにごとだろうか?先ほどまで感じていた静寂が嘘のようだ。外の様子を確認しようと身体を起こしたとき、物凄い勢いで階段駆け上がる音とほぼ同時に志郎の部屋の開戸が勢いよく開けられた。
「志郎、起きろ!!」
父親の声が響いた。父の顔は真っ赤になっていた。
「起きてたけど!どうしたの?」
驚きのあまり、志郎は急いで布団から立ち上がった。
「山火事だ!今すぐ外に出て、火を消すのを手伝え!凛さんや仁さんも向かってるはずだ。現地では役人が指示を出しているはずだ!」
志郎は慌てて服を着替え、父とともに家の外へと駆け出した。普段は霧に霞んだ月明かりが照らす中、今は炎の赤い光が空に映し出されていた。
第二地区の方向に見える山から煙が上がっていた。田畑の方には村の人々が列を成しており、川から水を汲み上げた桶を順々に前に運んでいる様子が見えた。
「俺たちが行くのはもっと前の方だ!」
志郎は父親の後ろにできるだけくっついて走った。
列を成した村人を見ると、後方には女性や老人は水を供給する役割で、男は前方に集められているようにみられた。
前方に近づくにつれ、赤い光が強くなり、熱気と煙が濃くなる。目がしみるようになってきた。
最前列に到着すると、山のふもとの木々が赤々と激しく燃え上がる様子が目の前に広がっており、近くにたつ百姓の家に燃え移りそうだった。志郎の目は大きく見開かれ、その壮絶な光景に心が震えた。
「水桶を!」と近くの男が叫んだ。仁さんだった。志郎はすぐさま水の入った水桶を受け取り、他の男たちとともに火元に向かって水を投げ入れた。
父親は誰よりも前に立ち、水を投げ入れていた。しかし少しも火が弱まったようには思えない、より炎は風に煽られ、一時的に収まったように見えても、勢いを増して燃え広がっていった。
煙と熱に覆われながらも、志郎は次から次へと水を運び、炎に立ち向かった。火の熱さで息が苦しくなってきたが、志郎は止まらずに動き続けた。
突然、一つの大声が耳を打った。
「みんな!退がれ!あの家がもうダメだ!崩れるぞ!!」
一軒の家が炎に包まれてしまい、その崩れ落ちる音とともに、熱と煙がさらに濃くなった。
「皆、家の周りを守るのを最優先に!」
「こっちの水、もっと早く回せ!」
指示と悲鳴が入り混じる中、村人たちは必死に火を消そうとし続けた。
何時間もの戦いが続いた後、突然に風が収まり、雨が降り出した。大粒の雨が炎に冷たい水を浴びせていった。確実に火の勢いは弱まっている。
夜明けを迎えるころ、炎はほとんど収まった。村人たちは雨に打たれる中、水の入っていた桶を下ろして腰も下ろしていた。志郎も疲れ果てて膝をついた。
「霊峰様が助けてくれた…霊峰様が雨を恵んでくださった!」
老人の声が聞こえてきた。多くの村人がその言葉に同意するように頷いた。
この山火事で村の大部分は無事だったが、数軒の家が焼け落ちてしまった。恐怖と焦燥の長い時間が終わり、とてつもない疲労感で打ちのめされている村人たちの中、志郎の目にも少しだけ涙が浮かんでいた。
村人はなかなかその場から動かなかったが、徐々に重たい身体を動かし自分達の家に帰って行った。
志郎も人の流れに乗って丘の家に向かって歩き出した。帰り際、炭と泥にまみれた顔の仁さんに「よくがんばりましたな」とだけ声をかけられた。
同じく炭で黒く色付いた顔をした父親は、志郎に先に帰るようにいい自身はくたびれて動けない村人達に声をかけて回るようだ。
重たい足取りで自分の家に向かっている途中、反対側の第二地区に向かう春子と目が合った。
志郎は何も言わなかった。以前口喧嘩してから一度も会ってないのも理由の一つだ。志郎と目が合ってもすぐに春子の方が目を逸らし、走って行った。
普段の春子なら口喧嘩したことなど忘れたように、お構いなしに話しかけてきそうだが、春子も疲れていたんだろうか?不思議に思ったのは春子の顔が周囲の女子供と違い、墨で顔が真っ黒で、右手の袖が焦げて一部無くなっていたのが気になった。
志郎はやっとの思いで家に辿りつき、真っ黒になった着物を自分の部屋で脱ぎ捨てた。この村では着物を頻繁に洗濯する習慣はないが、明日は村中の小川が、着物を抱えた村人でいっぱいになることだろう。
着物を脱ぎ捨てたとたん緊張状態から解放されたからか急激に眠気に襲われ、下着姿のまま眠ってしまった。