周囲を見渡すと広場にはほとんど村人は残っていなかった。
「志郎!」
一通りの片付けを終えた父親の声だった。凛さんも父親の横にいた。2人の距離感に普段と変わらないはずなのに、嫌な違和感を感じてしまう。
「わたし達も霊峰様にお参りしてから帰りますが、志郎さんはどうしますか?」
凛さんはいつも通り優しい声で志郎に尋ねた。
「僕はこのまま学び舎に行きます。荷物も持ってきているので」
志郎は肩にかけた下げ袋を指差した。
「分かった。学び舎が終わってからでもかならず霊峰様にお参りに行きなさい」
と父親が言い、凛さんも頷いた。
石段を上がっていく2人の背中を少しの間見送ったあと、志郎は学び舎へ向けて足を向けた。
当たり前のように遠くに見える黒い渦を尻目に、学び舎の門をくぐり教室に入った。
予想していたが、いつもよりも集まる生徒の数は少なかった。普段の半分の人数。昨日あんなに大変なことがあったのだ、学び舎にきたがる子供は少ないだろう。
だが龍太郎は来ていた。自分もそうだが、役人の息子は風邪でもひかないかぎり学び舎にくるのは当たり前だ。龍太郎のまわりを囲む取り巻きも今日は欠けていた。
「ちっ何で今日わざわさこんな意味ないとこ来ないといけないだよ」
龍太郎は志郎の顔を見るなりどこかに向かって不満をぼやいた。疲労だろうか龍太郎に似合わない憂鬱な顔をしている。志郎はいつも通り無視するつもりだった。龍太郎のことなんて気にすることはない。いつもの机に向かおうとした時、龍太郎は声を張り上げた。
「てめえもなんでこんなところでじっとしてられんだよ!!」
志郎に向けられた言葉は教室に響いた。
「なにをいってるの?苛立つのは構わないが僕に当たらないでくれ」
なぜいつも通り無視できなかったのか分からなかった。
龍太郎は立ち上がり志郎に詰め寄ってきた。
「なにをいってるかわからない??嘘だろ?この村に山に火をつけた奴がいるんだぞ!」
興奮が高まる龍太郎の言葉に教室の空気が張り詰めた。
志郎はわざとため息をついた。
「村頭も言ってただろう?山火事の原因はわからないんだ」
「村の住人の仕業だと思いたくないだけだろ!村の住人を疑うことになって反感を受けるからな!父ちゃんだっていってたぞ。ここ何百年もこんな村の近くで山火事は起きてないんだって!自然に発火したとは思えないって!てことは誰かが火をつけたんだろうが!」
龍太郎の憤りはまるで炎のように燃え上がっていく。
「だとしても村の誰かがやったなんて根拠にはならない」
志郎は冷静さを保っていた。つもりだったのかもしれない。
「俺はゆるせねー!絶対火をつけたやつを見つけてとっちみてやるよ。俺の家のやつを不幸にしたんだ。許すわけにはいかねえ」
その言葉で、なぜ龍太郎が怒っているのか理解できた。昨日焼け落ちた家は龍太郎の家のお手伝いの家だったことを思い出した。けれどそんなこと自分にとってなにも関係ない。どうでもよかった。
「そんなこと僕に言わず、勝手にやれよ!僕は知らない」
志郎もふつふつと苛立ちを覚えてきた。なんでこいつは自身の怒りを僕に押し付けてくるんだ。
そんな折、鬼の形相で龍太郎は掴み掛かってきた。
「てめえはなんで、なんで、そんな他人事のようにいられるんだ!!村頭の後継なのに!!!」
顔を近づけながら龍太郎の放ったその言葉に志郎は我を忘れた。
「勝手に決めるな!!」
龍太郎を投げ飛ばし、馬乗りになって顔面を殴りつけていた。
「全部どうでもいい!!なんでみんな僕に期待するんだ!村頭になりたくて生まれてきたわけじゃない!」
志郎は怒鳴っていた。何度も何度も同じ言葉を怒鳴り、拳を何度も振り上げていた。
龍太郎を殴った回数は3回までは覚えているが、それ以上の回数は覚えていない。龍太郎は鼻血で真っ赤に塗られた顔で必死にもがいている。志郎の拳には血がべっとりとついていた。
教室の中は沈黙が落ちた。他の生徒たちは凍りついており、ただただその場に立ち尽くしていた。
志郎は自分の行動に気づき、龍太郎から跳ね起きた。自分の血まみれの手を見つめた。自分は何てことをしてしまったのだろう。自分はなぜ怒りを抑えることができなかったのだろう。
「ごめん……」
志郎の声は小さく、震えていた。反射的に出た言葉に龍太郎は答えなかった。龍太郎の眼差しは遠く、空虚だった。そこには以前の挑戦的な光はなく、ただ痛みが滲んでいた。
そんな時、いつも通り遅れた時間に早川先生が教室に入ってきて意図せずして沈黙を破った。
「ごめん、ごめん寝坊して遅れちゃって・・・・・・あれ?みんなどうしたの??いつもはもっと騒がしいのに……」
早川先生の言葉が全て耳に入る前に志郎の身体は動き出していた。
勢いよく教室を飛び出し縁側を飛び越えた。早川先生が何か大声で叫んでいたが何を言っていたか分からない。
全てがどうでもよくなった。とにかくこの場から消えたかった。志郎は心臓の鼓動は速まる一方で、呼吸も荒くなっていた。裸足の足は小石を踏んづけ痛かった。とにかく走ることに必死だった。裸足の足は自然と、狐の道の先にある黒い渦を目指していた。
黒い渦に向かう道中は若干の開放感があった。生まれてからずっと自分を閉じ込めていた暗闇から抜け出しているような感覚があった。
志郎は自分がずっと背負ってきた重圧から逃れるかのように、この瞬間においては、痛みも、ついさきの龍太郎への暴力も、村頭としての未来も、全てが遠くなっていく気がした。黒い渦はもう目の前だった。
「志郎!早くこっちに!!」
黒い渦から狐の声が聞こえる。狐の声に安心感を感じる。今志郎が会いたいのは間違いなくあの不思議な狐なのだ。今の自分なら狐の問いにも答えられる。少しの躊躇もなく、志郎は渦の中に入っていった。