中央広場につながる木造建築の家が連なる道を歩いている時、ふと春子の事を思い出した。ここ一週間ほど前からこの道で春子に出会っていない。以前はこの道をあるくと必ずと言っていいほど、話しかけてきたのに。最後に見たのは山火事が起きた日だった。そんな時、その名前を叫ぶ声が広場から聞こえた。
「春子がいないんです!ずっと探しているんですが、家にも田畑にもいなくて!!」
その声の主は春子の母親だった。霧祭りの日、一度見かけた事がある。
春子の母親の対応をしているのは凛さんだった。
「すみません。いま村頭は手が空いていなくて」
「今お忙しいのは分かっています。ですが、あの子は何をしでかすか私も分かりません。早く探してあげたいのです」
志郎は春子の母親の慌てた様子と凛さんの対応を見ながら、心配の感情が湧き上がった。春子は確かに行動が読めない奴だった。今になって不安を感じ始めた。というのも春子と最後に話した時の会話を思い出したからだ。
「もしかしたら春子は外に出たのかもしれません」
横から現れた志郎の声に2人とも驚いていた。特に凛さんの方が動揺を隠せていなかった。
「あなたは村頭のご子息の方ですよね?春子が外に出たとはどういう事でしょう?」
春子の母親は志郎に不安げな表情で問いた。
志郎は最後に春子と会話した内容を話した。
「兎にも角にも、春子は村の外に憧れを抱いていました。霧が晴れた今、村の外に出るため山を越えているのかもしれません」
霧が晴れた原因等はこの時話さなかった。志郎が原因を担っているのだから話せるはずもなかった。
志郎の話を聞いて、春子の母親は倒れるように座り込み、凛さんは信じられない様子だった。霧が晴れた時、村人は外の鬼から攻められることは恐れるだけで、村の外に飛び出すという発想がそもそもないのだ。
志郎は内心で葛藤していた。自分の行動が春子の決断に影響を与えてしまったのではないかという責任感が、志郎を苦しめていた。しかし、今は狐の神の鳥居を超えた先にあったあの場所に向かうことが優先されるべきだと自分に言い聞かせた。
うなだれて口を開かなくなった春子の母親をよそに、凛さんが小声で話しかけてきた。内容は予想していたものだった。
「どこに行ってたのですか?みんな心配していたのぇすよ。龍太郎を殴るなんて、正直、私は清々しかったですけど、志郎さんの立場上良くないことには変わりありませんからね」
凛さんの龍太郎嫌いも相当なものだ。凛さんは大して怒っていないようだ。
「それはまだ言えないんだ。それでも本当に心配をかけてごめんなさい」
心が苦しかったが今はこれ以上言えないし、簡潔に説明できる気がしなかった。
「秘密ですか?」
「うん、今は秘密・・・・・・今は時間がないんだ。すぐにしなくちゃいけないことがあって・・・・・・だけど、全部終わったら何もかも話すよ!」
「はい、わかりました。私はそれでもいいんです。私に頼るのは一番最後でいいです。志郎さんが今なにをしているのかは分かりませんが、なにもかも終わった時に話を聞いてあげる存在であれば良いんです」
小さな笑顔を作る凛さんの姿が長年志郎の中で作り上げられた死んだ母親の姿と重なった。
「もう行かなきゃ!」
頭に浮かび上がった未来は霧を戻さなければ訪れない。その気持ちが志郎を焦りを生み、突き動かす。
広場の中央に目を向けると父親が村頭として、混乱に陥った村人を一人一人なだめるように話している。汗をたらし、志郎のことも気づいていない。その状況を見ても目も耳も塞ぐことはしなかった。
広場の先ある石段を駆け上がると霊峰神社の鳥居がある。志郎は勢いよく駆け出した。戸惑う村人を避け、勢いは落とさないように走る。十尺ほど離れた先の父親と目が合ったがすぐに目線を外した。志郎の姿を見るに瞳孔と共に口が開いていたが、父親の言葉は志郎の耳に入ることはなかった。志郎は険しく長い石段を駆け上がった。走って登るものじゃないと気づくのは半分ほどに達した頃だった。それだけ一生懸命に足を上げ続けていた。振り返ると、下の方に、人々が小さくなって点のように見える。父親がどの点なのか分からないが、不穏な動きを見せる息子を追いかけて来れないほど余裕が無いのが、今の村頭を取り巻く状況だった。
息を切らしながらも、志郎は石段の最後まで駆け上がった。頂上に立つと、目の前には塗り重ねられた赤色が映える鳥居とその先に広がるのは霊峰神社の静謐な境内だった。
志郎にはまぁまぁ見慣れた景色だ。訪れたことがない村人もいるだろうが、村頭の跡取りが霊峰様をぞんざいにするわけにはいけない。霧祭りの日には必ずこの神社に訪れ、空っぽの本殿に向かって手を合わせていた。祭壇は今から行く場所にある。都合よく行ければだけれども・・・・・・。
荘厳な空気が漂い、彼の心を一瞬で落ち着かせた。自分の使命は水晶玉を元の場所に戻して霧を再び甦らせること、それまでに村に何事もないことを祈りたい。
不安なのは鳥居を越えた先からは雅ババからの助言もないことだ。全部自らの過ちを正すために自分で考え、行動を起こさなければならない。
最後に山の新鮮な空気を取り込むように大きな深呼吸をした。そして志郎は右手に巻かれた一本の狐の毛に目をやったあと、勢いよく鳥居の中に飛び込んだ。鳥居をくぐると同時に狐の毛を切れた音が聞こえた。