志郎は血を流しながらもこの場から離れようと這いずる鬼と思わしき者の元へ駆け寄っていた。
志郎の近寄る気配に気づくと細い悲鳴をあげながら近く生えていた太い幹にしがみついた。よく見ると太ももから血が垂れている。
「お許しください!お許しください!どうか見逃してください!」
「僕はあなたに何もする気はありません。ただお話したいだけです」
「お話し?あなた方にとってそれは私を食べるために必要な儀式のようなものですか?」
志郎は驚いた。食べる?だれがだれを?もしかして僕に食べられると思っているのか?
「僕は人間です。まずはこちらを向いてください」
志郎の言葉を聞いた鬼だと思っていたものは、ゆっくりと体の向きを志郎に向け、頭に身につけた兜を地面に置いた。
志郎はまじまじと彼を見つめた。鬼の象徴と思っていた角は頭に生えておらずら目の数も鼻の数も指の本数も自分と同じ。どの角度からみても自分と同じ人間だった。
「僕の目にはあなた方がただの人間にしか見えない」
「私にも霧の中に人間がまだ生き残っていたことに困惑しています。言い伝えと違っている」
どちらの台詞か混乱するほど、2人は同じことに驚いていたようだ。
「一つずつ確認していいですか?あなたは人間ですか?」
この人間にみえた者は頷く。
「僕らの村では霧が張る前に、鬼が外の世界に蔓延っており、外の世界に人間は生き残っていない。と伝えられています」
「鬼??」
男は疑問符が浮かんでいるような顔をしている。
「私の知る限り、鬼なんて存在は知りません。私たちは、霧の中は、人間を食べる妖魔が蔓延っており、時を見て霧の外へ攻め込んでくる。と言われていて皆、霧の中を恐れています」
志郎はなにかなんだか分からなくなった。この者が人間であることは分かった。
鬼が外の世界にいない?それどころか以前存在したとかでも無さそうだ。外の世界の人間は霧の中に住む僕らを妖魔だといい恐れている。あまりに村で教えられてきた歴史と乖離している。
志郎は焔達に視線を向けた。焔は首を横に振った。
「我らはその事について何も言えぬ。貴様が直接霊峰様に尋ねろ」
その言葉に志郎は頷いた。これまで見てきて焔達、従者には勝手にできない領分があることを志郎も察している。再び志郎を見上げる人間に目を向ける。
「言い忘れてました。僕は志郎といいます。あなたの名前をお聞きしていいですか?」
「小五郎といいます」
志郎は次に何を聞き出すべきか悩んでいる間少しばかり間が空いた。その間に小五郎は頭を抱えてぶつぶつと呟き出した。
「何を言っているのですか?」
そういいながら聞こえやすいように志郎はより小五郎に近寄ったとき、小五郎は大声をあげた。
「あーなんでこんなことに!!みんな死んじまった!あいつらの家族に顔向けできねー」
志郎は小五郎の絶望に満ちた言葉にはっとさせられた。外の世界に人間がいるということは、志郎達と同様に家族がいて、人間同士の付き合いがあるかもしれない。いや、きっとあるんだ。
「あなたは何をしにこの山に入ったのですか?」
「私はこの山脈の外側に近い場所にあります『霧見町』の武士でございます。霧が晴れた後、私たちは地域一帯を治める殿様から偵察として山に入るよう命じられました」
この男は武士だった。志郎の住む村では何百年も前に不必要な存在として消された存在。文献にしか存在しなかった武士が目の前にいる。その事実に不思議と感動し口角が上がっているのが分かった。
「偵察?なんのために?」
志郎は小五郎に命令をした殿様の目的を知りたかった。
志郎の放った質問に小五郎は黙ってしまった。
「教えてもらえませんか?」
「わかりません」
小五郎が答えたのはそれだけだった。本当に知らないのか、本当は知っているのか志郎には判断がつかなかった。
そんな時だった。
「やられた!!」
志郎の後ろにいる風磨が焦りの混じった大声をだした。
「どうしたんですか?」
驚いた志郎は風磨の方に振り向いて尋ねた。先程負った右肩の傷は既に血が止まり治っているように見える。その回復力から従者の身体が人間とはまったくちがうものだと感じさせる。
「まだ他に別の奴らが山に入り込んでやがった。数も相当多いぞ」
「そいつらは今どの辺にいるのだ?」
焔が風磨を睨みつけながら尋ねる。
「もう村の近くだ!!」
「村の近くだと!?なぜそこまで気づかなかった!!」
焔が怒鳴りつける。
「わかんねー、風も、木々も全く今まで何も異常を感じていなかった」
志郎にわかったことは風磨が索敵できていない部隊が村の近くにいるということだ。
「クソ!!こんなところでゆっくりしている暇はない!!」
焔の歯軋りが鳴り響く。
「村の人達は大丈夫なんですか??」
2人の会話を聞いた志郎の脳裏には、父親や、凛さん、仁さん達の顔が浮かび上がった。
「まだ、村には到着していない。いまから急げばまだ間に合う!」
「だったら早く行かないと!!」
志郎は焔の背を目掛けて駆け出そうとする。
「ちょっと待ってください!私はどうすればいいのですか?」
小五郎ご困りきった顔で志郎を見上げている。
「好きにしてください。もうなにがあってもこの山に入らないでください」
「わかりました。私はここからなんとかして『霧見町』へ戻ります」
志郎は焔の背に再び飛び乗った。最後に小五郎の方を振り返ってみると、うなだれてすぐに動き出す様子はなかった。
「急ごう!!」
志郎の声とともに焔は駆け出した。
風磨も空に舞い上がり、彼らは急いで村の方向へ向かった。