目的の場所に辿り着くまでにそう時間は掛からなかった。
浮いている不思議な島は、下からの目測通り小さな場所で、よく手入れのされた芝生が広がっていた。その中央には、壮大で巨大な大木がそびえ立っており、その周囲には大小さまざまな花々が植えられていて、色とりどりの花が咲き誇っていた。
でもここはとにかく空気が薄い。霊峰台地も人間が生きていける 環境ではなかったが、ここの空気は全くないに等しかった。そんな場所にいられる自分はもう人間とは呼べないのかもしれない。
早川先生は地面に降りると彼は志郎に向かって微笑み、言った。
「ここが霊峰霊地だよ、志郎くん。霊峰様が長い間、お休みになっている聖なる場所だ」
志郎は周囲を見渡しながら、感嘆の息をついた。この場所は静かすぎて時間が止まったような感覚になった。
「霊峰様はどこにいらっしゃるんですか?」
志郎が尋ねた。
早川先生は距離がおかしく感じるほどの巨大な大樹を指す。あの大樹のどこに霊峰様が休んでいるというのか。どこかに部屋に繋がる穴でも開いているのだろうか。
「もうちょっと近づけば分かるよ、ちょっと待って。霊峰様が目覚めているかどうかはわからないからね」
と警告した。
二人は慎重に大樹に近づいた。大樹に近づくにつれて、その壮大さと神秘的な雰囲気はより一層強まった。
巨大な幹は、上を見上げてもその頂を見ることはできず、空高く伸びていた。樹皮は古く厚みを持ち、その隙間からは微かな光が漏れているように見えた。
「ここが霊峰様の眠りし場所……」
志郎は感嘆と共に尊敬の念を込めてつぶやいた。
「いや、どちらかというと霊峰様の一部というか・・・・・・まぁなんというか・・・・・・」
なぜか急に早川先生が言葉を選びながら続けた。
「見えるかな、あの外に飛び出てる根本。あそこに霊峰様がいるよ」
どういうことだろうか?この巨大な大樹が霊峰様だと言われる方がまだ受け入れられる気がする。けれどそうではないようだ。
この先にはどんな光景があるのか?霊峰様は一体どんなお姿をしているのか?ここにきて緊張感が増してきた。
近づいてみると、自分の身長の四倍ほどあるだろうかそれだけ太くて大きな根本が地面から何本も飛び出している。けれど目の前の根本に異質な枝が不自然に伸びていることに気づいた。
不自然というのは巨大で力がみなぎっていそうな根本にいかにも弱々しく見え力を感じないか細い枝。だが妙に目に入り気になる。
「わかった?あの枝に見えるのが霊峰様」
「え!?」
早川先生の指さす先にある細い枝に目を凝らすと、その枝は人のような形をしていた。それはとても繊細で、しかし何とも言えぬ力強さを持っているように不思議と感じる。
「驚いたかい?霊峰様はこの大樹と一体となり、その一部を使って顕現されるんだ」
早川先生は静かに説明を続けた。
枝のように見える霊峰様の姿は、想像していたものと違い言葉を失った。大樹の根に両腕と下半身は飲み込まれていて、細い上半身のみが枝のように飛び出しているようだ。
上半身の形から女性であることは辛うじて分かる。髪は白だが、早川先生や狐のような白銀の輝きはなく色褪せているように見える。年季の入った肌は大樹の色と近く、長い髪が顔を覆い透けて見える顔に生気はない。本当にこの方が心の声で話した霊峰様なのだうか?あまりに傷ましい姿だ。
「なぜこんな・・・・・・」
つい飛び出そうになった心の声を途中で止めた。村の絵巻で描かれる霊峰様はどれも美しく描かれている。思い描いていた姿とかけ離れた姿に驚きを隠せなかった。
「びっくりするよね。でもこの方が霊峰様なんだよ。今はお眠りなのかな?」
早川先生の言葉に、志郎はさらに深く霊峰様を見つめた。その姿は静寂そのもので、まるで時間が止まったかのような平和さを感じさせたが、同時になにか深い悲しみや苦悩を内包しているようにも見えた。
「霊峰様はこの大樹と一体化した状態で五百年以上もの時間を過ごされた。自身の生命力を大樹に吸わせることによってその生命力は分配させる。そして山の木々を育て、命を作ってきたんだよ。計り知れないその力の源はいくら神とはいえ無限ではなかったんだ」
早川先生の声には敬意が込められていた。
「でも、これは・・・・・・」
「霊峰様は望んで自身の役目を務めている。霊峰様がいなければ山は枯れ、村はとっくに滅びている。それだけの責任を一人で背負って自身の役目を最後まで果たそうとしているこの方の気持ちを村頭になりたくないと逃げ出そうとした君が分かるはずがない」
その通りだ。霊峰様が自らの生命力を使い、この山や村を守ってきた、そしてその大きな犠牲に思いを馳せた。彼女の深い犠牲と役目に比べれば、彼自身の逃げ出そうとした気持ちがいかに些細で自己中心的なものであったかを痛感した。だけど、けれども、今の僕は違う。
「早川先生、事実、僕は自分の役目から逃げ出そうとし大きな過ちを犯しました。けれども今の僕はあの時の僕ではない。ここに来るまで沢山の人が必死に自身の役目を全力で全うする意思を感じてきました。あの時の僕のままであっては許されないと思ってます」
「そうか。それがわかるのはこれからの志郎君の人生しだいかな」
巨大な生物のまま、早川先生の反応はそれだけだった。
「早川先生ちょっと聞いてもいいですか?」
「なんだい?」
「早川先生は霊峰様といつ出会ったんですか?」
「そうねー、僕が最初の従者なんだよ。だいぶ昔、僕は武士として外の奴らの襲撃から村を守るために戦っていたんだけど、気づいたら家族も恋人もみんな死んじゃってね。心も身体もボロボロで死にそうな時、霊峰様が霧を張ってくれたんだ。霊峰様は僕を争いという望まない役目から解放してくれたんだ。だから霊峰様は僕の恩人だと思っている」
「え?」
それだと早川先生は五百年以上生きていることになる。早川先生の家は代々学び舎の教師を務める家系だったはずだ。五百年も生きていたら村中に妙な噂が広まる筈だがそんなことはない。
「不思議に思っていることは分かるよ。僕はね、焔や風磨みたいな従者とはちょっと違うんだ。僕は霊峰様への案内役でもあるけど、焔たちから聞いたかもしれないけど、霊峰様の伝承を伝え続ける役目も担っているんだ。君が通っている学び舎がまさにそう。あの場所は村の有力者の子供を集めて霊峰様の伝承を教える場所なんだよ。でも僕がずっと生きていたら変でしょ。だから役目を全うするために僕には特別な力があって、血が繋がる者に記憶を受け継げるようになっている。僕自身は不老じゃないけど、僕の子孫が僕であり僕の親が僕だったんだ」
春子にボンボンの集会所と言われ、志郎自身も行く意味のない場所だと思っていた学び舎という場所は知らないところで意味を持っていた。
もしかしたら他にもそんな意味が無さそうでも誰かにとっては大切な場所があるのかもしれない。
「でも、記憶を受け継いだら早川先生はもとの早川先生ではなくなってしまうのではないですか?」
「そうだよ。僕は伝承を伝える役目を果たすために40歳で死ぬことが決まっている。だから20歳まで子供を作らなければならない。そして僕が40歳で死ぬ時、僕の子供は20歳くらいで記憶を引き継ぎ、そして僕になる」
早川先生はあっさりとした口調で答えた。
「残酷すぎる。ぼくだったらそんな人生耐えられない」
話をきいて理解できなかった。なぜ早川先生はその役目を受け入れられたのだろうか?
「なぜ受け入れられるかって?それが僕らの運命であり人生だから。最初の僕がどんな気持ちでこの役目を請け負う事を選んだか、記憶を受け継いだ時に分かる。僕は僕の覚悟を否定しないし、この先何百年たっても後悔することはない。最初の僕が選択し、その先に生きる僕はその選択を受け入れることができた。ただそれだけなんだ」
早川先生の覚悟に圧倒された。それは自分がこれまで感じてきた重圧とは似ているけれど、全く違う。きっと何度聞いても早川先生の理解できないと思った。
突然、心に語りかける声が聞こえた。
「志郎。早川とあなたは全く違います」
心の中に響き渡った女性の声は一度聞いたことのある声。霊峰様の声。一気に緊張で身体に力が入った。