そこからいくら話しかけても霊峰様の声は聞こえなくなってしまった。
「ほら、いくよ。志郎くん」
早川先生が言うと、名残惜しい気持ちを抑え、志郎は感謝の言葉を霊峰様に向けて一礼をした。
霊峰様はまるで木の枝のようにように硬そうな首を少しだけ縦に振って頷いている。心の声は聞こえなくても精一杯見送ってくれているように見えた。
霊峰様に背を向けてしばらく島の端まで歩く。下を覗いてみると鳥肌が立った。
「それじゃ、下の世界に戻ろうか」
早川先生はまだ気怠そうにそう言い、巨大で長い身体を器用に操り頭を地面に下ろした。
「はい、志郎くん、また乗って!」
志郎は再び早川先生でもある巨大な生物の頭のツノに捕まるように乗った。彼はしっかりと身を固定し、深く息を吸い込んだ。空を飛ぶ不思議な感覚に再び身を委ねる準備ができていた。
早川先生は、舞い上がり、遠く下に見える霊峰台地に向かって、飛び始めた。
周りの景色は再び速く流れ、志郎は目を閉じ風に吹かれながら、この瞬間を心に刻んだ。彼の心は霊峰様との会話、そしてこれから狐に相対する覚悟で満たされていた。
その時間は一瞬であった。早川先生は徐々に速度は落としていく。気がついた時には、もう霊峰台地の地面はすぐそこにあり、志郎達は霊峰台地に降り立った。
「志郎くん、僕が君の助けになれるのはここまでだよ」
「なんで!?」
早川先生の口から出た思っても見なかった言葉に志郎は動揺した。てっきりこのまま最後までついてきてくれるものかとばかり思っていた。
「嫌だよ。先生、このままついてきてよ!ほら、いつもの先生の姿に戻ってよ」
まるで駄々をこねる子供に戻ったかのように、普段の言葉遣いも忘れ、白銀に輝く巨大な胴体にすがりついた。
志郎が駄々をこねても早川先生は人間の姿には戻らなかった。そして首を横に振ってみせる。
「どうしたんですか先生??」
「僕はもう人間の姿に戻れない。霊峰様が会うに値する者が現れた時、霊峰霊地までの案内役になり、そこで僕は案内人としての役目は終わる。役目が終われば人間に戻れない。それが霊峰様の従者にはなる時に交わした約束・・・・・・役目であり人生。この姿で村に戻ったら大変なことになるのは志郎くんも分かるでしょ」
「でも・・・・・・」
簡単には受け入れられなかった。でも早川先生の言う通りだ。
「君も約束をしたんでしょ?君はあれだけの力を与えられた。君の人生を全て捧げるぐらいの約束なんでしょ?」
そういえばあの時は霊峰様と僕の会話でしかなくて、早川先生は知らないみたいだ。てっきり知っていて案内役をしてくれたのかと思っていたが、ただ霊峰様に指示を受けただけなのかもしれない。
「いや、それが僕が外の世界の武士達にヒナワで撃たれて死にそうな時に、確かに霊峰様と約束をしましたが、それは霊峰様と会うってだけの約束だったんです」
「そうなの?それは変だね。たしかに霊峰様と直接会えるのは相当なことだけれど、それであんな神の如し力を与えられるものかね」
「でも、早川先生も聞いていたと思うんですけど、先ほどまた約束をしました。僕の正しい役目を自分で選ぶっていう・・・・・・不思議な約束ですけど」
「たしかに、僕も聞いていて変だなって感じていたんだ。僕や焔達も明確な役目を頂いてからそれを全うすることが約束だったんだねど。今回の志郎くんの場合なんか毛色が違うね。でももしかするとその不思議な約束も実はとてつもない重さを持っているのかも。あの人かなり実はかなりやり手だから」
「とにかく僕は約束を守ってみます。どうすればいいかわからないけど」
霊峰様はその時が来るっていっていたけどそれがいつなのか分からない。自分の役目を選択する瞬間なんて待っているだけで訪れるものなのだろうか?
「役目を引き受ける時に大切なのは常に自分自身に正直でいることだよ。役目っていうのは人生そのものなんだ。与えられた役目でも自分で選んだ役目でもそこは変わらない」
志郎は早川先生の言葉を噛みしめた。役目は人生そのもの・・・・・・そしてそれを選ぶのは自分自身。狐に出会う前までは与えられる役目しか見えていなかったが、今は自分で役目を選ぶ権利が与えられている。成り行きとはいえ不思議な気持ちになった。
「とりあえず進んでみます。全てが終わったらまた早川先生に会いにまたここに来ます」
「僕もまた会えるのを楽しみにしているよ」
早川先生は、志郎が背を向けようとするのを見て、声をかけた。
「志郎くん、君なら乗り越えられる。君にはその力がある。そして、忘れないでほしいのは、君が一人じゃないってことだよ。下には焔と風磨がいる。彼らはまだ君の助けになれるから!僕ほどじゃないけど!」
志郎が振り返ると声が発せられた場所には早川先生の姿はなかった。上を見上げると、遠く高く、空に向かって昇っていくのが見えた。その姿は威厳に満ち、どこか慈愛に満ちた表情をしていたように見えた。
志郎は霊峰様の下へ戻っていく彼の姿を見つめ、「ありがとうございました」心の中で静かに感謝の気持ちを伝えた。