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第9話 吉原へ

◇寛文十年(1670年) 江戸 多賀一郎 十九歳


 寛文十年の晩春の夕暮れ、江戸の町に提灯の光が灯され出す。


 多賀一郎は金沢屋に誘われ、神田川の柳橋のたもとの船着き場から猪牙ちょき舟に乗り込む。金沢屋が「さぁ天国への旅の始まりです!」と合図を送ると、船頭が櫓を漕ぎだす。


 一郎は興味深そうにキョロキョロ見回す。川にかかる橋の下を船がくぐると、「わー」と子どものようにはしゃぐ。それを微笑ましく眺める金沢屋は「今夜は先生にピッタリの女郎を用意してますんで、お楽しみに」と盛り上げる。


 一郎は「本当に、本当にありがとうございます」と頭を下げ、「金沢屋さんは銭もたくさん稼いでいるのに偉ぶらず、本当に良い人です」と無邪気に褒める。


 橋の影が金沢屋の顔に一瞬陰を落とし、「良い人ですか…商売をやってると、良い人ばかりではいられませんけどね」とポツリと言う。


 慌てて一郎が「いえいえ、絶対良い人ですって。廻船が江戸と遠国を行き来すればするほど、どちらの民も潤うんですから。僕ら絵師に比べて、素晴らしいお仕事です」と褒める。


 金沢屋は裏表のない一郎の善意に目を細めて、「まぁ、そういうことにしましょう。湿っぽい話は粋じゃねぇ!」と元の金沢屋に戻る。



 やがて浅草寺の塔が見えてくる。西の空が赤く染まる。一郎は真面目な顔で夕焼け空をじっと見つめる。


 金沢屋が「おっ、絵師の目になりましたね」とからかうと、一郎は頭をかき、「すみません、つい。でも、僕ら絵師にとって、夕方の刻一刻と変化する空は、どうにかして描きたい画題なんです」と話す。


 金沢屋は「確かに、もうさっきと色が変わりましたな」と感心したように言う。


 一郎は「そう、この空気、このとき感じた印象を描けないだろうかって」と考え込む。金沢屋が「ねぇ」と同じ言葉を繰り返したとき、船頭が「旦那たち、山谷堀に入りまっせ」と伝える。


 しばらく船が葦の生えた堀を進むと、日本堤の土手が闇に揺れながら立ち上がる。周囲の暗闇の中で、吉原から虚空に向かって光が広がっている。


 日本堤から分岐する衣紋坂をくだる一郎は胸の高鳴りを抑えきれず、「僕にピッタリって言いましたよね。どんな女の人なんですか?」と聞くと、闇に沈んで表情が見えない金沢屋は「着いてからのお楽しみですが、『コチョウ』っていう女ですよ」と明るく答える。

 一郎は「コチョウ?」と聞き返す。期待で高鳴った胸の高まりは、別の脈動を加えてさらに激しく心の臓を刻む。

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