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第17話 金沢屋の目覚め

 金沢屋丸木五郎は、籠を借りて、多賀一郎を江戸市中の長屋まで送った。


 道中、「先生?大丈夫ですか?」と声をかけても、うつろなままで、時々「タスケテ」と繰り返すだけだ。


 丸木は、板倉の指示で胡蝶を吉原に売った張本人だが、まさか胡蝶と絵の先生である一郎と「直接」関係があるとは知らない。


 籠から肩を貸して降りて、長屋の戸を開けると、一度土間に一郎を腰掛けさせて、畳まれていた布団を広げて、ひきずるようにして布団に寝かす。


 一郎の着物からぷーんと銀杏の実をつぶしたような臭いが広がる。男に着替えさせられたと、あとで気づくのも嫌だろうと考え、そのまま布団をかぶせる。


 懐から煙管を取り出して、長屋の天井に向かって、ふーっと煙を吐き出す。


 一年前の伊勢亀山でのことを思い出す。商人であることをあれほど呪った日はない。いや、呪いたいのは、あの陰陽の娘、胡蝶のほうだろうと思い直す。



 板倉は「お前は廻船問屋を独立して『金沢屋』を起こせ。問屋組合にはすでに話を通してる」と言う。


 丸木にとって自分の店を構えるのは、長年の夢だ。真面目に働いているだけではそれが永遠に夢のままであることも分かっていた。


 伊勢亀山の「金沢かなざわ川口かわぐち」築港を、たんなる番頭に過ぎない自分に任されることのおかしさが分からなくなるほど、舞い上がっていた。


 亀山城の奥御殿で、気品と見たことのない色気を放つ胡蝶と会った。板倉から「吉原に売る」と言われた瞬間、頭の中でそろばんが弾かれて、「太夫たゆう」を狙えると計算してしまった自分のがいまは恨めしい。


 丸木はその時、板倉に聞いた。


 「年季は何年ほどに?」


 板倉は「年季は無い」と冷淡に言う。丸木は「いや、それは吉原ではありえません」と初めて抵抗らしい抵抗をする。


 板倉は「遊女は仮の姿。こやつは伊勢亀山藩の藩士、そうだな、岡本助之進すけのしんとでもしておこう。武士が主家に仕えるときに年季なぞ決めるか?」とニヤッとする。


 丸木は「で、では源氏名は?」と聞くと、板倉は「今、こいつの名前は助之進となったゆえ、さっきまで使っていた本名の『胡蝶』とせよ」と冷たいニヤケ笑いをしながら告げる。


 丸木はこの男の底知れぬ悪に、「もう引き返せない」と腹をくくる。


 その後、丸木が手に染めたのは、遊女を売る程度では収まらなかった。だが、後味の悪い取引をすればするほど、「金沢屋」の蔵は使いきれないほどの銭で溢れていった。


 時々、指示された監視を兼ねて、吉原で胡蝶をげる。もちろん、寝たりはしない。話もしない。


 買われた時間、胡蝶は自分に背を向けて文机でなにかを読んだり書いたりしてる。


 その背中を煙草をふかして眺めながら時間を潰してるだけだ。


 冬のある日、いつものようにただ煙草をふかしていると、柱に細長い絵が掛けられているのに気づく。


 丸木はあぐらを解いて柱に近づいて、その絵を手に取る。ありきたりな風景が描かれた絵だが、そのなんとも言えない温かさに目が離せなくなる。


 文机に向かって背を向けていた胡蝶が振り返って、冷たい視線で「絵に興味があるなんて、意外ね」と数か月ぶりの言葉を出す。


 それまで丸木は全く絵に興味はなかった。むしろ何の役にも立たない時間の無駄とさえ思っていた。


 丸木は絵を持つ手を震わせながら「こ、これは、誰が描いたんだ?」と口に出す。胡蝶に質問したわけではない、返事が返って来るとも思っていなかった。


 だが胡蝶は「狩野派の若手。名前は知らない」と短く答える。


 丸木はガバッと胡蝶の背中に向かって土下座すると、「頼む、この絵を譲ってくれないか、いくらでも出す。この絵の作者を知りたい」と言う。


 しばらくの無言のあと、胡蝶はくるっと身体を回して、丸木に正対し、「いいわ。作者を調べるって言うなら譲ってあげる」と微笑む。


 丸木が胡蝶の微笑みを見たのはこれが初めてだった。間もなく、丸木は狩野派の画塾に入り、教え手に多賀一郎を指名した。





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