「すごい。すべて彩色で、丹念に縮小模写されている」
「色、材質、形状だけでなく、所有者や値段まであるわ」
「胡蝶見て!雪舟だよ」
「達磨を描いた有名な
胡蝶と多賀一郎は「探幽縮図」を読んでいる。
胡蝶は「それに、なんと言っても作品への感想が面白いわ。探幽先生、じゃない友達の探幽の絵の見方が…」と言って上目遣いで探幽を見る。
探幽が「遠慮するな、友達じゃろ」と言うと、胡蝶は「なんとも痛烈ね。これは偽物と断じたり」と微笑む。
探幽は「カカカ、ワシに鑑定を依頼するんじゃ、それくらい覚悟しておるじゃろう」と言うと、一郎は「確かに」と頷く。
胡蝶は急に下を向いて肩を震わす。一郎は「どうしたの?」と聞く。
「楽しい…すごく楽しい…友と絵を語らうことがこんなに楽しいなんて」
探幽はニヤリとして「じゃろう」と頷き、冷めた濃茶を飲もうとすると、すでに空になっている。
「そろそろ外も明るくなってきそうじゃな。名残惜しいがワシは退散かの」
「そんな、もっともっと話しましょうよ」と胡蝶がすがるように頼む。客が長くいることを願ったことはこれまで一度もない。
「ふふふ、これぞ、人間の谷を渡る風の中にいる醍醐味じゃ。じゃが、若者たちの語らいの時間も大事なこと。最後に、見せてくれないか、一郎の運命を変えた胡蝶の舞を」
胡蝶は頷くと、すっと立ち上がる。四隅に置かれた行灯が、室内を幻想的な空気で満たす。
胡蝶は、優雅に身体を傾けると、一郎から渡された白い
胡蝶の動きは軽やかで、妖艶というよりも、まるで渓流で遊ぶ少女のようだ。
一連の舞いの最後。
胡蝶は探幽に背中を見せて、動きを止める。探幽も息を止める。
探幽が息を吸った瞬間を、背中で感じ取った胡蝶は、ぱっと上半身をひねって、顔を探幽のほうに振り返り、またピタリと静止する。長く豊かな黒髪だけは勢いが止まらず、まるで強い風になびいているかのように大きく広がり、流れるような曲線を描く。
胡蝶の大きな瞳と、少し開いた唇は、どこか憂いを帯びつつも、意志の強さを、探幽に伝える。
風を受けたかのような躍動感と彼女の内にある激情を際立たせ、その一瞬を切り取った舞いが終わる。
胡蝶は通常ならば正座をして挨拶をするが、「ハァハァ」と早い呼吸を続けながら、立ったまま、座る探幽を見つめる。
探幽は深い思索に入りそうな己を止めて、微笑みを作ると、座ったまま、胡蝶に右手を伸ばす。胡蝶は右手で握り返し、グッと老人の身体を引き起こす。
探幽は「可憐で神秘。静寂と躍動。喜びと激情。相反することを見事に合一させおった。若き友人、胡蝶よ、美しい
胡蝶は手を握ったまま、涙が溢れて、声を出せない。一郎もまた涙を流す。今度こそはただただ心からの喜びの涙であった。
探幽は「朝日まで半刻はある。これからの時は若者の時間じゃ。若者の時代がどうなったかは、次に会うときに存分に聞こう。その時は、狩野永徳じぃさまを二人に紹介してやるからな」と言う。
「探幽先生…」と絞り出すように胡蝶が言うと、探幽は「おっと、先生ではなく、アミーゴじゃろ」といたずらっぽく言う。
「一郎、探幽縮図はワシが死んだ半年後に、ワシの少ない友達に取りに行かせる。それまでは思う存分、二人で語り合うがよいぞ」と言う。
一郎は言葉も出せずに探幽の空いた手を両手で握り、嗚咽を漏らす。
「大事なことを忘れるな。お前たちに弟の悪口は預けた。だから一郎、絶対にワシの葬儀に参列してはならないぞ。ワシの遺言じゃ」
そう言うと、狩野探幽は、送ろうとする胡蝶と一郎を、有無を言わせぬ目で制し、一人で階段を降り、明るくなりかけた吉原の町へ消えていった。