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第43話 悪の華

◇延宝二年(1674年)十月 吉原門外


 天才絵師・狩野探幽は、自らの予言通りに、翌十月にこの世を去った。享年七十三歳。


 池上本門寺で葬儀がしめやかに行われた日の夜、吉原の大門外、金沢屋が借りる屋敷では、行灯のほのかな灯りに照らされた多賀一郎と金沢屋丸木五郎の二人が酒を飲んでいる。


 夕方に降り出した雨はすでに止んでいたが、屋敷の中には湿気った空気が重くよどんでいる。


 一度は胡蝶を思い、さめざめと涙を流した丸木だが、その顔はすでに闇を生き抜く悪徳商人の「悪人面」へとキッパリと戻っていた。酒が喉を焼く感覚が内なる感情を抑える唯一の手段であるかのように、手酌で杯を重ねている。


 一郎は「もっと志を共有する仲間が必要だ」とつぶやくが、「でも…それは一番重要なことじゃない。僕たちは、どんな手を使っても、歩みを止めちゃいけないんだ」と決意を込めた顔で言う。


 丸木は、一瞬、柔らかい視線で一郎を見つめるが、また自分の頬を思いきり平手ではたく。顔中髭だらけの達磨のような風貌が、一層凄みを増す。


 「悪事を考えるのは、わたくしめの役目。絶え間なくあの手この手が浮かんできまする」とニヤリとする。


 一郎は、お猪口を床に置き、丸木をじっと見る。


 丸木が指を一本立てる。「まず一つ。偽の遊女評判記を、市中に流す。ある人物の醜聞や、倒錯的な性癖を、それとなく匂わせる。吉原の遊女の口から、噂として広めることもできましょう」


 二本目の指を立てる。「米相場を操作する。金沢屋の持つ廻船問屋の流通網と情報網を使えば、特定の藩だけならば、藩財政を窮地に陥らせることもできましょう。領民の飢餓はさらに増えましょうが」


 「三つ目。御家騒動を扇動する。藩内の対立だけでなく、一族間の競争を煽ります。吉原に出入りする家臣たちに偽の情報を流し、疑心暗鬼に陥らせることは容易いことです」


 四本目の指を丸木が立てようとすると、一郎は、そのゴツゴツとした手を、自らの左手でそっと押さえた。そして、代わりに自分の右手の指を四本、静かに立てる。その瞳に、冷たい光が宿る。


 「朱子学信奉者の信仰心を逆手に取る。朱子学は明の時代のものだけど、儒教自体は仏教よりも古い。伊勢神宮を始め、日本の神社信仰には儒教や老荘思想といったいにしえの中国の教えが反映されている。儒教による『たたり』を創り出すことはできないだろうか」


 室内の湿気が凍りつくような言葉に丸木は一瞬目を丸くするが、すぐにニヤリとして、「祟りを我らで創ってしまうのですか? それは考えたこともありませんでした。朝湖先生、さすがです」と首を大きく縦に振る。


 「傀儡くぐつ師が首にかけた人形箱から、仏を出すか、鬼を出すかは、所詮、傀儡師の糸の引きよう」と一郎は言うと、五本目の親指を立て、手のひらを開く。


 「そして…いずれの企てであっても、将軍や大奥へ、直接的、間接的に情報の流布と介入が必須なんだ。溜飲を下げたり、喝采を浴びたりするのが僕らの目的じゃない。日ノ本を変えるには、そこに到達しないと、描いた絵は完成しない」



 丸木がゴクリと唾を飲み込む音が、室内に重く響いた。その張り詰めた空気を、まるで一陣の風が吹き払うかのように、戸がガラリと開く。外から、雨上がりのからっとした空気が座敷に流れ込んでくる。


 「いやー、急に雨降ってきたから濡れちゃったよ。止んでくれて、良かったなぁ」


 軽口と共に現れたのは、松尾芭蕉だ。黒い羽織袴は、雨に濡れて少し色濃くなっている。池上本門寺での狩野探幽の葬儀から、そのまま来たのだろう。


 芭蕉は、雨で濡れて乱れた髪をかき上げながら、勝手知ったる家のように、台所に行くと、自分の分の徳利とお猪口とツマミを盆に載せて、座敷に上がり込む。


 一郎は、「探幽様の葬儀に、代わりに行っていただき、本当にありがとうございました」と丁寧に頭を下げる。


 芭蕉は「良いって、良いって。オイラも行っておいて良かったよ。帰りに総門を出たところで、狩野宗家とも偶然会えたし」と飄々と話す。


 「安信やすのぶ師匠とお会いしたのですか?」と一郎が聞くと、「うん、たまたま声を掛けてきてくれてね」と芭蕉。


 丸木は「それは偶然でないのでは?」と聞くと、芭蕉は「そっかなぁ、たまたまだと思うよ」と軽く答える。


 一郎は「安信様はお元気でしたか?」と尋ねる。


 芭蕉は「傘差してたからよく見てないけど、声からすると元気だったよ。『元気にやってるだろうか?』って独り言みたいにつぶやいていたから、『今日も吉原で元気に太鼓持ちしてますよ』って言っておいた」と笑う。


 一郎はもう一度頭を下げ、芭蕉に酒を注いだ。自分のお猪口にも注ぐと、目を閉じて、杯を少し高く上げてから、一気に飲み干した。


 芭蕉が、「そうそう、例の計画で、二人に相談なんだけどさ」と何でもないことのように口を開く。


 「実はさ、ある大名に、忍者になってくれないかって、頼まれてさ、どう思う?」と聞く。


 一郎と丸木は一度互いの顔を見合わせてから、芭蕉の顔を見て、同時に声を上げる。


  「…忍者?」


  困惑する一郎と丸木に対して、芭蕉は「そうそう、忍びの者。ニ・ン・ジャ」と軽い口調で言う。

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